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吾輩はネコである(後篇)

夏目漱石「吾輩は猫である」のパロディ。

異世界転生もの。

歴史ネタあり。

 その後、主人は書斎の床を三日かけて拭き、四日目には水の湧いた理由を考えるのに飽きた。人間と云う者は、自分に分らぬ事は、忘れる事にして片付けるらしい。吾輩は猫ながら、これは賢明な処世であると認めざるを得ない。


 主人の家へは時々、商人の友人が来る。この男は、口から出るものの九割が嘘で、残る一割も怪しいと云う評判であるが、話が愉快なので吾輩は嫌いでない。ある日の午後、縁側で茶を啜っていた二人の間に、例の土手の話が出た。


「今年もまた荷が湖畔で腐る。あの土手に溝を一本掘れば済む話ではないか」


 主人がそう云うと、友人は扇子(せんす)で膝を叩いた。


「五度企てて五度潰えた事を、君は知らぬのか。人手は要る、金は要る。しかも水は上へは流れぬ。掘って水が通らねば、只の穴だ」


「それを通すのが技師の腕であろう」


「腕の有る者は皆、この町を出て行った」


「今年は特に悪い。麦の船が川の向うで足止めを食っている。冬までに荷が入らねば、町の者は粥を薄めて凌ぐ事になる」


 主人は膝の上の絵図に眼を落した。


「白い所は、いつまで経っても白いままか」


 その声が存外に沈んでいたので、友人も笑うのを止めた。地図師と云うものは、他人の測った数字を写して暮すものと先に書いたが、白い所だけは、写す元が無いから描く事が出来ぬ。描けぬ白い所を、この主人は毎日眺めていたのである。吾輩はそれを、少し気の毒に思った。


 友人は茶を飲み干し、気を取り直して声を落した。


「そう云えば、面白い話を聞いた。昔、南の国の王が、水夫を乗せた船を出して、陸地の周りを三年かけて一周させた。秋になる毎に岸へ上って麦を蒔き、実るのを待って刈り取り、また船を出したそうだ。しかも帰った水夫どもは、南の海では太陽が右手に見えたと云う」


「馬鹿を云え。太陽が右に出て堪るものか。どうせ君の法螺(ほら)だろう」


 吾輩は危うく声を出しかけて、堪えた。その話は事実である。命じたのは吾輩である。紅海を出た船は、三年目にジブラルタルの海峡を回って帰って来た。水夫は太陽が右手に見えたと報告し、宮廷の者は皆笑って、誰も信じなかった。吾輩自身も半信半疑であった。しかし事実は事実である。真実を語って信じられぬと云うところに、失敗の印象なるものの正体は在るらしい。


 それから吾輩は、毎晩、台所の水桶の縁に坐る事にした。水に慣れるための修行である。一晩目は水面を睨み、二晩目は水面に鼻を近付け、三晩目に足を一本入れて、飛び上って天井の梁まで逃げた。下女が見たら、猫が気狂いになったと思うであろう。しかし吾輩は、水を怖がる民に、水へ出よと命じた王である。命じる側は気楽なものであったと、今にして思う。天も洒落た事をする。


 四晩目の夜、吾輩は家を抜け出した。


 道の途中で、黒が待っていた。垣根の上に丸くなって、月を見ている。


「こんな夜更けに、どこへ行く。王様の夜回りか」


「土手を掘りに行く」


「猫が土手を掘るのか。爪が磨り減るぜ」


 黒は笑ったが、吾輩の足が湖畔の道の手前で震えているのを見て、笑いを収めた。


「てめえ、水が怖えのか」


「怖い」


「怖えのに行くのか」


「行く。吾輩には、通し損ねた溝がある」


 黒はしばらく黙り、それから髭を一本、ぴんと弾いた。


「勝手にしな。犬が来たら、俺が追っ払ってやらあ」


 吾輩は、この乱暴者が思いの外、気の良い猫である事を、その時初めて知った。


 湖畔の道を東へ行き、土手の下へ来ると、月が湖面に映って白く揺れていた。吾輩は土手の腹に爪を立て、東へ向って掻き始めた。爪の下で土が割れ、割れ目に湖の水が忍び寄って足を濡らす。総身の毛が逆立つ。それでも吾輩は掻いた。一掻き、また一掻き。水は爪痕に従い、爪痕は水に導かれて、土手の内へ潜って行く。


 掻きながら、吾輩は昔の事を思い出した。メギドの野でユダの王ヨシヤを死なせた事。その跡継ぎヨアハズを、廃して虜にし、エジプトへ連れ帰った事。あれはあれで吾輩なりの筋は立てたつもりであったが、猫の目で見直せば、只の乱暴であったやも知れぬ。済んだ事は水に流すと人間は云う。流したところで、死んだ者は還らぬ。それでも吾輩は、せめて今夜は、水に流すべきものを流したい気持であった。


 夜半、土手の向う側で、ごうと云う音がした。川が此方の水を呼んだのである。溝は見る間に幅を広げ、湖水は堰を切って東へ落ち、小舟の一艘も通れる水路が、月の下に白く延びた。吾輩は毛の先まで濡れそぼち、震えながら、その水路を見送った。王であった頃の吾輩が掘りあぐねた溝は、猫の爪一本で、ついに通じたのである。


 翌朝、町は大騒ぎになった。川の船が湖へ入り、麦を積んだ荷が水の上を滑って来る。町の者は口々に、長雨で土手が崩れたのだと云い、商人の友人は、実は自分の日頃の行いが天に通じたのだと法螺を吹き、主人は慌てて絵図の白い所へ水路を描き加えた。誰一人、猫の爪の事は知らぬ。人間と云う者は、成功の手柄を、最も声の大きい者に与える習性がある。これは吾輩が王であった頃からの観察であるから、間違いは無い。


 吾輩は縁側の日向で毛を乾かしながら、少しも不満でなかった。名の残らぬ事には、慣れている。


 思えば吾輩の運河は、通った途端に、吾輩の手を離れた。掘りかけていた頃は、あれほど自分の名と結び付けて考えていたのに、通ってしまえば、水は只の水で、船は只の船である。運河と云うものは、そう云う物なのかも知れぬ。名は削られても、水は流れる。


 夕方、主人が濡れ毛の吾輩を、つまみ上げた。


「お前、昨夜はどこへ行っていた。泥だらけではないか」


 答えられる訳がない。


「それにしても、お前を何と呼んだものか。おい、とか、そこの、とか、不便でならん。猫だから、ネコでいいか」


 吾輩は喉を鳴らした。ネコ。それは倅が鑿で削らせた、吾輩の名であった。異世界の地図師が、寝惚けた声で、何の気もなく呼び返したのである。


「どうだ、ネコ」


 吾輩は、にゃあ、と一声鳴いた。


 垣根の上から、黒が首を出して云った。


「ネコか。猫がネコとは、芸のねえ名だな」


 芸の無いのが何よりである。削られた名が、これほど平凡な形で戻って来るとは、王であった頃には夢にも思わなんだ。


 吾輩はネコである。名前は、今しがた取り戻した。二世である。

文:Claude氏(Free)。

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