↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
25/60

吾輩はネコである(前篇)

夏目漱石「吾輩は猫である」のパロディ。

異世界転生もの。

歴史ネタあり。

 吾輩(わがはい)は猫である。名前はまだ無い。


 いや、正確に云えば、かつては有ったのである。有ったものを、後の世の何者かが鑿(のみ)で削り取ったのである。削らせたのは吾輩の倅(せがれ)だと聞く。もっとも、本当に倅が削ったのかどうか、学者の間でも意見が分かれているそうで、吾輩としては甚だ迷惑である。故に吾輩は、まだ貰えぬ猫とは事情が違う。奪われた猫である。この点を、読者に予め断っておく。


 吾輩は元来、人間であった。しかも並の人間ではない。エジプトの王、法老(ファラオ)であった。名をネコと云う。ネコ二世である。異国の読みを日本の言葉に直すと、偶然にもそうなるのだから仕方がない。猫がネコと呼ばれるのは当り前のようで、その実たいそう出来過ぎた話であるが、出来過ぎているのを一番迷惑に思っているのは、他ならぬ吾輩である。


 サイスの都に坐して国を治める事十五年。世の人は吾輩の治世を、何かと云えば失敗であったと評するそうだが、大概は結果だけを見て云うのである。吾輩は運河を掘りかけ、船を造り、シリアを越えてアジアへ軍を進めた。ユーフラテス河を渡った王は、遥か昔のトトメス三世以来、吾輩が初めてである。ただし渡ったところでハランの城は落ちず、のちカルケミシュの野では、バビロニアの若造ネブカドネザルに見事に負けた。負けたのは事実であるから、これは潔く認める。


 そのうち死んだ。どこで死んだかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗い寝所で唸っていた事だけは記憶している。ふと気が付いて見ると、無暗に明るい。眼を明いていられぬくらいだ。


 そこに神が居た。神である事は、見れば分った。分った理由は説明しにくいが、強いて云えば、書類の束を抱えていたからである。


「目が覚めたか、ウェヘムイブラー」


 これは吾輩の即位名で、ラー神の心を行う者と云う意味である。吾輩は身を起して聞いた。


「貴様はラーか」


「あれは私の同僚だ。今日は休みでな、代りに面談を受け持っておる」


 死んだ後まで休暇を取る神が居るとは知らなんだ。


「面談とは何か」


「次の世の振り分けだ。汝の国では心臓を天秤に掛けるそうだが、あの方式は待つ者が多過ぎて、近頃は異世界転生と云う略式を採っておる」


 神は帳面を繰り、さも気の毒そうに顔を曇らせた。


「ところが、人の枠が満杯でな。空いているのは猫の枠のみだ」


 吾輩は耳を疑った。


「猫とは、あの猫か」


「あの猫だ。汝の国では殺せば死罪になるほど尊ばれておるではないか。出世と思え」


 出世かも知れぬ、と吾輩は思った。人間に生れて人間をあまり信用して来なかったから、猫の目で人間を眺めるのも一興であろうと、この時は存外気軽に承知したのである。


 神は帳面の端を読み上げた。


「評に曰く。行動の人。想像力は同時代人の及ばぬところなるも、失敗の印象を残す不運あり」


「余計な御世話である」


「詫びの印に、特別の力をひとつ授ける決まりでな。汝は戦に着た衣をアポロ神に奉じた殊勝の者ゆえ、加点もしてある。無敵の力でも、不老不死でも、千里を見る眼でも、望みを申せ」


 吾輩は考えた。軍勢はカルケミシュで痛い目に遭った。無敵と云っても、死んでから貰っては遅い。千里眼が有れば若造の奇襲も見破れたであろうが、それは済んだ話である。吾輩には、片付けねば気の済まぬ用事が唯ひとつ有った。


「運河をくれ」


 神は書類から顔を上げた。


「ウンガ」


「ナイル河の支流から紅海へ抜ける運河である。吾輩は着工したが、ついに通せなんだ。人を使うだけ使って、完成を見ずに死んだ。あれが心残りである」


 神はしばらく黙り、帳面に何か書き込んだ。


「地味な望みだな。近頃の者は皆、剣だの魔法だのと申すが」


「派手なものは、王であった間に飽きるほど持った」


「よかろう。授けるのは水脈開通(すいみゃくかいつう)。汝の掘った溝には、どれほど遠くの水でも必ず通ずる。猫の爪の一掻きとて同じである」


 有難い、と云いかけると、神は付け足した。


「ただし猫は水を好まぬ。あれは私の設計ではなく猫の勝手であるから、そこは自分で何とかせよ」


 かくして吾輩は、異世界と云う所へ放り出された。異世界と云っても、どこの国とも吾輩には見当が付かぬ。ただ、顔のつるつるした人間が煙草を吹かして暮しているところは、吾輩の知る国と大差なかった。もっとも吾輩も王であった頃は頭を剃っていたから、他人の事は云えぬ。


 吾輩はある家の庭先で行き倒れているところを、この家の主人に拾われた。拾った時の、主人の第一声はこうであった。


「汚い猫だ。まあ、置いてやるか」


 これが吾輩の、この世での最初の待遇である。名前を付ける気配は、今日まで一向に無い。


 吾輩の国では、猫を殺した者は死罪であった。猫が死ねば家の者は眉を剃って悼んだと聞く。それが異国へ来れば、拾われて最初に貰う言葉が汚い猫の一言である。神は出世と云ったが、あれは所詮、書類の上の出世であったらしい。


 主人は地図師である。町の絵図を描いて生計を立てているが、吾輩の観察するところ、描いている時間より寝ている時間の方が長い。地図師と云うものは、自分の足で一里も歩かず、他人の測った数字を写して暮すものらしい。それでも当人は、天下の測量を一手に担うような顔をして、客が来る度に忙しい忙しいと云う。


 吾輩は主人の書斎に忍び入り、机上の絵図を眺めた。町は湖の畔(ほとり)に在る。湖の東に低い土手が横たわり、その向うを大きな川が流れて海へ通じている。町は水に囲まれていながら、海へ出る道を持たぬ。荷は皆、土手を車で越すのだそうで、雨が降れば荷車が泥に沈み、麦も塩も湖畔で腐る。絵図の土手の所は、白く塗り残されていた。


 近所には黒と云う猫が居る。魚屋の飼い猫で、乱暴者で通っている。ある日、垣根の下で出遇った。


「おう、見ねえ面だな。てめえは何だ」


「吾輩は猫である。名前はまだ無い」


「猫だと? 猫が聞いてあきれらあ。さては名無しの権兵衛か」


「ただの猫ではない。エジプトの王であった」


 黒は髭(ひげ)を震わせ、腹を抱えて笑った。


「そいつあ豪儀だ。じゃあ俺あ海の向うの大将だ。王ならさぞ、鼠を沢山獲るんだろうな」


「獲らぬ。鼠を獲る王など聞いた事がない」


 黒はまた笑った。これほど笑われたのは、カルケミシュで負けた日以来である。


 さて吾輩は、猫として生きる上で一つ大事な事を忘れていた。猫は、用を足したあと、土を掻くのである。


 ある朝、吾輩は庭の隅で用を足し、猫の習いで爪を立てて土を掻いた。すると掻いた爪痕の底から、ちょろりと水が湧いた。水は忽ち溝を伝って走り出し、庭を横切り、敷居を越え、主人が昼寝をしている書斎へ、勢いよく流れ込んだ。


 主人は畳の上に浮いた絵図を抱えて跳ね起き、床が一面の池になっているのを見て眼を丸くした。


「この馬鹿野郎」


 これは吾輩に向けられた言葉であろう。云いたい事は山ほど有るが、猫の身では云えぬ。それより吾輩は、足の裏が濡れたのが恐ろしくてならなかった。猫は水を好まぬ。神の云った通りである。しかし同時に吾輩は、はっきりと悟ったのである。吾輩の爪の下には、確かに運河が眠っている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。