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☩ しつくす ロボットのなみだ ☩

 (今日は少し疲れたから早く帰りたい)そう思った私は普段は通らない、曲がりくねった狭い山道を走っていた。ここは以前、猪や鹿と遭遇したこともある獣フレンズルートである。そのリスクを承知の上で、鉛をぎゅうぎゅう詰め込まれたかのような極上の倦怠感で構築されている体を、ホールド性の良いレカロシートにうずめながら愛車を走らせていた。この道を通ることで、信号その他の都合により5分は短縮できるのだ。少しだけ野太いマフラー音のするWRX STIで自宅付近に帰った私は、ご近所迷惑にならないように出来る限りアクセルを吹かさないようステルス行動をとってしずしずと駐車場に滑り込む。偶然だが、我が家の玄関と駐車場に敷き詰められているインターロッキングは、今日私の足で歩いた、あのコースへの花道に敷き詰められているインターロッキングと同じ色調なのである。

グレー基調のサイディングを使用している我が家の白い2本の柱で支えられている玄関ポーチにはアールデコ調のライトがあしらってあり、ちょっとおしゃれで気に入っている。デザインは私が選んだ。洋風の重厚な黒い玄関ドアを開けて中に入ろうとした時、足元を黒い影がすり抜け私より先に玄関から建物内へ侵入した。「また抜け出してたんだ?ヒメただいま」そう言って、その黒い影に声をかける(にゃにゃにゃにゃ)大げさだと思うだろうが、ヒメはこういう鳴き方をするのだ。もう1匹ムーと言う名の猫もいる。ヒメは動物愛護センターから引き取った。ムーは近所で野良猫として生活していたが、ある日怪我をして餌を取れなくなり、痩せ細っていたのを保護したのだ。だから見た目はわからないが、彼の片耳は聞こえず、片目は見えていない。何かにやられたのだろう。保護したときに牙が1本折れていた。助からないかと思ったが、今元気にぷくぷくと太っている。いずれ私の食料にするつもりだが今日はやめておこう。私は自分のお弁当は前の日の晩に作り冷蔵庫で保存し次の日の昼に食べている。いろんな人に「こまめですね」「すごいですね」と言われるが、弁当作りはクリエイティブな【遊び】なので結構楽しい。しかし今日は疲れ果てているのでサボることに決めた。私は有り合わせのもので簡単に食事を済ませると、そのままグレーの革張りソファへと、母の胸に飛び込む幼児のようにダイブを敢行し、その全体重を預けた瞬間にソファーが沈み込み、跳ね返すその力を利用しながら仰向けに寝転がった。ダウンライトが一つ切れているのを発見しながら、今日の彼女が発した、不可解な発言のことを考えていた。

「ハイソウデスネ」

 あのロボットのような喋り方は一体なんだというのだろう。馬鹿にされたのか?でも彼女は決してそんな事をするような人ではない。答えの出ないモヤモヤ感が胸を重く押さえつけていた。

 以前、彼女から仕事で頼まれたことをやってあげても、お礼がないときが何度もあった。

(自分から頼んでおいて、お礼も言わないってどういうことだよ)

 小さい男だと思うかもしれないが、私の中では、それは《絶対的な礼儀》だ。

 暫くは我慢していたが、限界に達した私は「他人に何かをしてもらったら、お礼はちゃんと言わないとね。それは礼儀として絶対必要だよ」二人だけになる時を見計らってきつく彼女に言った。

 彼女は「私はお礼を言うのを忘れてしまうことが結構あるんです」と告げた。

私は(それが分かっているのなら、思い出したときに言えばいいだけじゃないか) そう思って口を開こうとしたのだが、

 目の前の彼女の姿を見てそれをやめた。

彼女は本当に申し訳なさそうにうつむいたまま縮こまっていた。

 彼女の雰囲気があまりにも儚く見えて、風に吹かれて折れてしまいそうな花のように私の目に映った。

私はハッと我に返り「ごめんなさい。言い過ぎました」と謝ると、

 彼女は細い首を左右に小さく振り、栗色の手入れが行き届いたポニーテールを揺らしながら、「本当にすみません」と少し笑った。

私は、何故か、彼女のことを知りたいと思った。

 彼女の普段の行動や、ロボットみたいな話し方、仕事の効率化ができない、朝の出勤時の力のない目、急な体調不良による当日欠勤など、私が感じた違和感と、起こっている事実を織り交ぜながら検索してみた。そして、結果が画面に出力された。

生まれ持った脳の、強烈な不器用さ。

 すべてのピースが良くできたパズルのように寸分違わず収まっていく。

 私は、その内容を食い入るように読んでいった。

 彼女の不可解な行動はすべて、悪意があるわけでも、わざとやっているわけでもなかった。

 それらはすべて生まれ持った気質(特性)によるものだという事実が淡々と書いてあった。

 その特性が元凶となり引き起こされる事柄を、彼女自身が誰にも言えず、それゆえに理解もされないまま、一人で抱えこみ、それでも精一杯戦っている事実を理解していった。

 悪意があってお礼を言わないのではなかった。

 他人から善意を受けた瞬間、彼女の脳内は(嬉しい、申し訳ない、どう返そう)という数千個の感情データが津波のように一気に流れ込む「過覚醒暴走」という状態を引き起こし、その圧倒的な過負荷によって脳の回路が焼き切れんばかりにショートし、パニックを防ぐためにシステムが自動停止してしまうのだ。

それにより、お礼という言葉の出力そのものを忘却させてしまうのだ。

 彼女に改善してもらいたいと思い、忠告した私に対しての「ハイソウデスネ」

という壊れたロボットのような反応も、心の底からの拒絶ではなかった。

 私が言い放った正論を、生真面目な彼女が受け取ろうとした結果(怒られた、嫌われたくないという恐怖により)、脳がパニックを防ぐため自動停止した結果だったのだ。

 同僚たちが普通にこなせる仕事も、不必要な手順を省く効率化が苦手な彼女の特性上、暗闇の迷路をライトも持たずに全力疾走するのと同程度の負担がのしかかる。

 夜の過集中による不眠が、朝のあの力のない目を出現させ、肉体の限界を引き起こしていた。

 彼女の朝は、それほどまでに過酷だったのだ。

 彼女のことを調べていた私は、ある事実に気づき愕然とした。

 ーーそれは、彼女の持つ『脳の強烈な不器用さ』というデータの全てが、他ならぬ私自身の生きてきた歴史と、完璧にオーバーラップしていたという冷徹な事実だった。

 周りの空気を読む事ができず、思ったことをストレートに発言することにより、周囲から白い目で見られ疎まれる。

子供の頃は、それが子供特有のわがままとして処理されていたのか、勉強も割とできたので、それで許されていたのか、全く気づいていなかった。ただ一部の男子や女子からは嫌われていた事は感じていた。

社会人になってから、それが顕著に現れるようになった。

仕事はできる。先を見て動いたりもできた。それに反比例するように、周りにいてくれた人がどんどんいなくなった。そして孤独になっていった。歳をとってからはそうなる理由をある程度理解していたので、言いたいことがあっても【言わないで自分の中で蓋をした】

そして、私の思っていた通りの結末になり、結果あたふたする人達を、心の中で冷淡に見下すことで自分の崩れそうなプライドをかろうじて保っていた。

 書類作成やパソコン作業も苦手で、パニックになったり、蝶々結びなどができるようになるのも人より遅かった。

ーー彼女とは違うけれど、似たような気質。

それが私の持っている特性だった。

 この特性により、人の輪の中に入る事が難しく、寂しい思いをする事も多い。

  二人を蝕んでいる地獄の名前は

       「孤独」

 このことを理解した瞬間、私が彼女に言い放った言葉が私自身にも突き刺さり、彼女のあまりにも孤独な情景が、私の心を蝕んでいる情景と重なり合い、絶対に抜くことができない返しのついた棘のように、

私の心に深く深く食い込んで抗いようの無い痛みと切なさを感じさせた。


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