☩ ふぁいゔ ショートサーキット ☩
「ハァ、ハァ、」 二メートル程の道幅の白とグレーのインターロッキングが敷き詰められたゆるいカーブを描く坂道を、二百メートルほど登って行く。
両脇には丁寧に四角く刈り込まれた《さつき》が、そのカーブの外側を彩るように沿って植え込まれている。花が咲く季節になれば、文字通りの花道となるだろう。 小高い丘の上に建つ、外壁が無骨なコンクリートだが、管理が良いのだろう黒い雨垂れの一筋もない、燻銀のようなツヤを持った平屋の構造物に近づいた。
関係者専用の通用口には駐車スペースがあり、三台の屋根付き一人乗り電動カートが等間隔で美しく並べられている。
通常はこのカートを使って各コースの発着場へ向かうのだが、私は自分の足で歩く。
その間に集中力を高め、足のポンプを動かして血液を循環させ、少し汗ばむ位に体の準備を整える。それが私のルーティーンだ。
最近、私の真似をする若い子が何人かいる。 私が模範走行じゃない時は、その光景を「頑張ってくれよ。自分に負けるなよ」そう思いながら微笑ましく見ている。 その通用口の先にある、ずしりと重いドアの取っ手に手をかけた。
バァン! 脳内でそんな音を響かせながら、さっきまで重々しかったドアを軽々と開けて、モンスターと同僚たちがいる部屋に戻った私を、笑顔が一斉に取り囲む。
ーーー今日はいつもより緊張しているな。 そう感じながら自分の足で発着場にたどり着いた。
やはり、まだ少しだけ生まれたての小鹿バンビおじちゃんだ。(人間らしくていいじゃないか) そう思うようにした。
ステンレスの手すりの冷たい感触を、右手に感じながら、黒で統一されたガレージ兼整備工場になっている楕円形の入り口。そのはね上げ式シャッターを開ける。
音もなくスムーズに跳ね上がっていくシャッターを待ちきれず、くぐるようにして場内に入る。
黒と赤を基調とした下品になるギリギリを見切った内装色。
柔らかな間接照明に照らされたルートを歩いて行く。
緩やかな右カーブ、その目線の先には近づくごとに全身を露わにしてきた相棒が、たった今削り出された金属のような佇まいで私を待っていた。
鉛のようなシルバーのマットカラー。上から照らす光を拡散させて、より大きく見えている。
まるで猛獣のように、そこに佇んでいるだけで、息を飲むような美しさだ。
カスタマイズされたリアウィングの大きさと、その角度
《GRヤリスRC》
コンパクトボディーと至高の四駆システム。
WRC王者のオジエ選手が監修した特別エディションを彷彿とさせる渋いカラーに塗り替えられた、センスの塊のような車だ。
私はその猛獣に敬意を表し、運転席側の天井にドライビンググローブをつけた右手を置いて語りかけた。(お前の力の全てをみんなに見せような) 命なき物にも愛情を注げば、そこに命が宿り、奇跡を呼び込むことができる。馬鹿正直にそう信じている。
だからこそ、傷つけたくない。壊したくない。究極のリスペクトに包まれた運転がそこに成立する。
レースの打算は私には向かない。
タイムこそが私のすべてだ。
刹那の祈りの後、運転席に滑り込み、タカタの四点式シートベルトをきつめに装着する。
この時点で既に、アドレナリンが脳内をドバドバと侵食していき始める。そしてやがて快感に変わる。
1.6リッター三気筒ターボエンジンに火が点る。排気量から想像出来ない低い唸りをあげる猛獣を手懐け、獲物を狙う猫科の動物のしなやかさで、スタートラインに停止させた。
薄曇りの天気の中、昨夜少し降った雨が部分的に残っていることを確認していた私は、通常とは違う走行ラインを通るための、その前段階の修正ラインを頭の中にイメージしていた。
今日の勝負のクリティカルポイントはそこだ。
頭上前方のゲートに取り付けられたシグナルがグリーンに変わる!
瞬間、路面とタイヤの、葉書一枚の接地面からグリップ力を削り出すスタートダッシュを決めた。
残念ながら、すべての電子制御デバイスを切ることはできないが、できる限り電子制御に頼らない走りをするため全オフにしている。
猛獣を縛っている鎖を解き放ってやる。そういうイメージだ。
絶妙なアクセルコントロールとフェイントを使い、タイトターンをできるだけ最短距離で、クリッピングポイントを舐めるようにアクセル全開で通過していく。
今日のクリティカルポイントが迫ってくる。
思っていたほどぬかるんではいなかった。(よし、これなら通常のラインで通せる!)
瞬時の判断により自身の最速を叩き出す。自由度が極端に少ない、三センチ程の針の穴を通し、直線的にアクセル全開で駆け抜けた。
私はその時、マシンと一体になっていた。何も考えていない。
ただ、この子のすべてを引き出すために、光と風の粒子になって混ざり合っている感じだ。
超高難易度の名所ーー「現役殺し」 コーナリングの途中でアップダウンが含まれた上に、コーナーの屈曲率が部分的に極端に変わる。
アンダーステア、オーバーステアを誘発し、簡単にスピン状態に陥る魔のコーナーだ。
正確無比なライン取りと絶妙なアクセルコントロールで適切なヨーを生み出し、曲がって行く。
四駆の特性を活かしたゼロカウンター走行。
無駄なエネルギーを極限まで抑え、それをすべて推進力へと変えていく。
ドリフトアングルを維持したまま、以前自身が刻んだ時と寸分違わないレコードラインをトレースしていった。
ーーーマシンのクールダウンをしながらゆっくりと発着地点に戻り、タイム計測を待つ。(ありがとう相棒。今日は少し暑くてパワーダウンしてたな) そう車に語りかけていた。
結果はコース基準値(許容最低タイムとコースレコードの中間タイム)マイナス六秒。
タイムロスを最小限にして、マシンの無駄な動きを極限まで抑えられた。その一体感を楽しんだ。
無邪気に一生懸命遊んだ子供の頃を思い出していた。
過去に私自身が出したタイム(コースレコードではない)には一秒届かなかったが、路面や気温の状況を考慮した上で自己ベストと遜色ないだろう。
あのモンスター爺婆や同僚たちも見惚れているに違いない。
そういえば、許容最低タイムに届かなかった人のペナルティーを伝えていなかった。
モンスター爺婆から白い目で見られるのは自ら招いたことなので我慢するしかない。
その日の予定を変えるわけにはいかないので、そのまま仕事を続行することになる。
一度だけ後輩がそうなった状態を見たことがあるが同情に値する。
その地獄を通過した上、一年間担当から外され、給料の上乗せ手当を消失、一年後の再試験をうける気力があれば、それに合格すれば復帰できる。
私からすれば、最低基準値のタイムは許すぎると思えるが、人手不足を考えるとそうも言ってられない、会社の事情もあるのだ。
この仕事の手当はかなりの金額なので、本当に痛い。それ故の緊張でもあるのだ。「素晴らしいぞ!私!」 得意の自画自賛が始まる。磨かれた技術は私を裏切らない。
みんなの賞賛を浴びながら、笑顔で何事もなかったかのように教室の一番後ろの席に座り、何かの景品だったと思われる、使い古して少し硬くなった派手な柄のタオルで汗を拭き取っていた。
興奮冷めやらぬ私は、周りに悟られない程度に息を弾ませ、心臓は、さっき告白された女子高生と同じくらいのハートビートを刻んでいた。
決して坂を登ってここまでたどり着いたことによる動悸と息切れではない。
「ふふふ! この鋼のメンタルが私の強みだろう」
先ほどまでいた、足カクカクバンビおじちゃんがどこへ行ったのか誰も知らない。
さて、本題のモンスター爺婆(GB)
彼らの試験は、GB六人を二人の検査員が受け持ち、スタートに時間差を設けた上で交互に行われる。
一人の検査員が時間内に三人を採点しなければならない。イレギュラーが起これば、時間内に終わらない可能性が出てくる。
私はこの作業手順を独自に見極めて、不必要だと思われる部分をカットし、自分が早く終わるように改善して、パートナーのトラブルに対応できるようにしている。 上司の許可は取ってあるが、元の手順は全国統一な為、簡単に変えるわけにはいかない。そこは暗黙の了解と、大人の事情だ。
今日は鷲尾さんとパートナーだった。 彼女とは結構な回数、パートナーになったことがある。押し付けられていると言っても過言ではないだろう。
彼女はとにかく仕事が遅い、遅すぎるのである。
私は自分が捻出した余剰時間を使い、彼女の一人分をいつもの如く負担して、四人分の検査を行っていた。
そしていつも、「助けてもらって、ありがとうございました」というお礼の一言もなかった。 私は内心、一般的な流儀とも、自分の流儀とも違う彼女の状態にストレスを感じていた。「何なのだ、この人は?」と、少しむかついていたが、そのうち時間内で出来るように改善してくれるだろうと見守っていた。
他のパートナーともそんな感じで疎まれているのだろう。だから上司は、その文句を封じ込めるために厄介事を私に押し付けてくる。
私の流儀【お礼は最低限の礼儀である】これは絶対に譲れない。
この日は五回目のパートナーだったと思うが、彼女は何も変わっておらず、悪い意味でいつも通りだった。
私はいつもと同じようにフォローしたが、やはりお礼も言わない。
積もり積もった思いが、言葉となって溢れ出た。
「もう君のフォローはしないよ(本心ではない)自分の仕事は時間内に責任を持ってやってください。自分の仕事を他人に押し付けるような事は良くないよ」 改善を促すように注意した。 すると、彼女は無表情のまま、私の方を見ようともせず、
〈ハイソウデスネ〉と、ハッキリそう言った。「改善しないとだめだよ」 さっきより強い口調で言った。
〈ハイソウデスネ〉
彼女はさっきと全く同じ無表情で、クッキリと答えた。
壁に立てかけた無抵抗なロボットに向かって石を投げつけ、無惨に壊れて行く様子を楽しんでいるようなイメージが頭をよぎり罪悪感を感じた。
彼女はその瞬間ロボットのようだった。
予想だにしない反応に、私は頭が真っ白になり言葉を失った。
「ナンデスカコレハ」
私は、パニックを起こしそうなほど狼狽した。
「リカイデキマセン」




