☩すりぃ しおれた花☩
彼女の名前は鷲尾亜衣子年齢は三十三歳で独身。この職場においては、私よりも一年先輩である。
車という閉ざされた空間。自分の力だけで理想の仕事ができる。
私がこの特殊な仕事を選んだ理由だ。 厳格なカリキュラムは存在する。ただ、極端に逸脱しなければ、指導方法は個人の裁量に委ねられていた。
そのワンマンな部分に魅力を感じていた。
私は国家資格と同等レベルの特殊資格を取得し、現在はプロフェッショナルとしてここに佇んでいる。
ーーそんな私が、まだこの門を叩いたばかりの、いわば「鼻先に人参をぶら下げられた馬」のように必死に実務をこなしていた、ある日のことだった。
仲間から少し離れた場所で、スマートフォンを見てうつむきながら、いつも一人でたたずんでいる彼女のことが、なぜか気になっていた。
「今日は声をかけてみようかな」 そう思いながらも、なかなか勇気が出ず、それを何日も繰り返していた。
彼女は小柄で(後に百五十五センチと言っていた)栗色で艶のある綺麗な長い髪を後ろで束ね、スタイルも日本人的にまとまっていて、会社のアイドル的存在でもおかしくない整った外見をしている。
好みの問題だが、顔もかわいい。 そんな彼女だが、その佇まいや雰囲気が他人を寄せ付けないほどに張り詰めており、その横顔は言いようのない切なさと寂しさを私に感じさせた。
今日こそは。そう決心した私は、思い切って彼女にそれとなく近づきながら、
「お疲れ様です。今日は天気がいいですね」ありきたりだが、ハズレもない言葉で声をかけてみた。
彼女は少し驚いた表情で私を一瞬だけ見てすぐに俯いて「お疲れ様です」と、小さい声で返してくれた。
この時初めて彼女の声を聞いた。とても優しく、綺麗で穏やかな声だった。
「あの〜突然だけど音楽は何が好きですか?」 唐突だとは思ったが、音楽の話題には大体の人が乗ってくれる。 彼女はスマートフォンに目を落としたままで、
「音楽はあまり聴かないのでよく知りませんし、興味もないのでわかりません」と、優しい声で打ち返せない変化球を投げて来た。
(おぉぉ。こういう事だったのね)と、 私が取り付くはずだったヤシの木が生えた小さな島が、海底から湧き出したメタンハイドレートの泡の中へブクブクと沈んで消えた。
私は、バミューダ海域を彷徨う幽霊船の気持ちを理解した。まさに取り付く島もない。せっかく振り絞った勇気も海の藻屑と化し、やがて泡になって消えた。 なかなかの塩対応ぶりに、ポキッと折れかけた私は、「あはっ!そうなんですかぁ」トイレに行くふりをしながら、「それじゃあ〜」と、両舷全速で魔の海域を離脱した。
一つ気付いた事がある。
彼女が私を見たその一瞬、瞳の中に感情の【光と揺らぎ】が見つけられなかった。




