☩ 天三 モシュ?☩
明け方午前3時ごろ、母屋の1階のテレビの横に設置してある黒電話のベルの音が、 二階で寝ていた私を一瞬で覚醒させた。
電話から離れているはずなのになぜか耳元で、しかも大音量で鳴ったように感じたのを覚えている。
すかさずベッドから飛び起き、上半身を起こした状態のまま「あぁ、父が死んだんだな」と感じた。
よく言われる虫の知らせとも違う。
私が先日見た父の状態からもう時間が残っていないことを脳が冷静に察知していたのだろう。
そんなふうに理解している。
その予感めいた確信は、「トントントン」ゆっくり階段を登ってくる祖母のいつもの足音が、近づくごとに鮮明になっていった。
私はすでに電気をつけていたので、ドアを開けた祖母と目が合った。
「お父さん(父の名前)がさっき亡くなったよ」
それだけを言って、ドアも閉めずに、階段で立ち止まりながらゆっくり降りて行った。
今日はお葬式だ。
昭和60年代の田舎では、基本的に自宅で葬式をする事が多かった。
地域には互助会と言われるものがあり、近所の方々が集まって協力しながら炊き出しをしたり、葬式の準備をしたりするのが普通だった。
私たち兄弟は、近所のおじさん、おばさんたちが忙しそうに食事を作ったり、花を飾ったりする姿をぼんやりと見ていた。
誰かにもらったお菓子を食べていると、私があんまり好きではない叔父が、「・・あの様子だから喪主は光輝にやらせたらいいんじゃないか?」
そういう話が途切れ途切れに聞こえてきた。
私は「喪主ってなんだろう?」と思いながら、何をやらされるんだろうと思いドキドキしていた。そこから先もぼんやりしていたのだろう。記憶があまりない。
次の記憶は好きじゃない叔父が、「光輝、これを読んだらいいからな」そう言いながら、一枚の折りたたんだ便箋を私に手渡した。そこから記憶が始まっている。
便箋を広げて、内容を見てみると筆ペンで太めに書かれた字で「我ら一同は、うんたらかんたら」と書かれていた。
何故か「我ら一同は」という言葉が、強く印象に残っている。おそらくこんな言葉を十七歳は使わないので、恥ずかしくて嫌だったのかもしれない。
この便箋を手渡された私は、喪主というものらしいので、先程の叔父が、「わしが合図をしたら、立ち上がって、みんなの前で読めばいいからな」そう言っていた。
末っ子の弟が、昨日怖い夢を見たと、私や他の人がいるところで話していた。
「お父さんが狐の面をかぶって棺桶の上に座っており、声をかけると口から大量の血を吐いて桶の中に倒れて消えた」
そう言って少し涙ぐんでいた。
あとで母に聞いたが、その夢を見た後、泣きじゃくっていたらしい。よほど怖かったみたいだ。
私は母屋の二階に部屋があるので、彼らとは離れて暮らしていたから、全く知らなかった。過呼吸みたいになって大変だったみたいだ。
父の体に巣食っていた癌が卵大のしこりとなって現れてから、約八ヶ月で父はこの世を去った。
その間の介護や、精神的な疲れもあり、母はヨレヨレになってしまっていた。
親戚の方たちも色々と助けてくださってはいたが、今の母は挨拶をすることさえできない状態だった。
歩く時も私が支えたりしていた。よほどこたえたのだろう。
そういう理由で長男である私に喪主をやれということだったのだろう。
祖父母がやってはいけない理由でもあったのだろうか?
なぜ私がやらなければいけないのか、理由もわからないまま言われた通りにフラフラ動いていた。




