☩ 天二 魚座の蟹座と水瓶座 ☩
私は十七歳になっていた。
「光輝、ちょっと来てみい」五右衛門風呂の焚き口で、冬の定番である焼き芋の番をしていた私に、父は風呂の中から声をかけた。
私は(もう少しで焼き芋ができるのに)と思って、めんどくさがりながらも「何?」と風呂の扉を開けた。
五右衛門風呂の周りを色とりどりのタイルが敷き詰められて作られており、その手間の割には豪華さとはかけ離れた感じの風呂には、祖父が壁に椎茸の木を立てかけていて野生味溢れる椎茸栽培風呂と化していた。
そこには、湯気モザイクが必要だと思われる父が仁王立ちしていた。両手が腰にいっていたかどうかは定かではない。
「このワシの腹を見てみい。鶏の卵が入っとるんで」
そう言って指差した部分を見てみる。
確かに卵大の膨らみがあり、触ってみるとコリコリつまめるような感じだった。
「これ、何なん?」私が聞くと、
「ワシにもようわからんけど、面白か
ろう?」
そう言って、父は笑った。
そんなことより焼き芋が気になる。私は一番大きいと思われる焼き芋を「あつっつつ」そう言いながら取り出し、持っていた箸を突き立てる。スーッと箸が通っていく。
よし、できた」と言いながら、他に入れていたじゃがいもなどと一緒に火炎地獄から救い出し、金タライに入れて自分の部屋に持って上がった。
そしてテレビを見ながら、一人夜食パーティーを開催した。飲み物はもちろん、シュワシュワとして泡が出るやつ、キリンレモン。農家だった祖父母の家には、ケース買いしてあったのだ。
ある朝、雪が降った。薄化粧をしたくらいに積もった雪だった。そんな中でも父はバイクで仕事に出かけた。
その日休みだった私は、二階の自分の部屋から父のバイクが小さくなっていくのを観ていた。
直線の後、ゆるく右カーブをしながら橋を渡ろうとした瞬間、父は盛大にコケた。私は「あっ!」そう思ったが、四百メートル以上は離れていると思われるので、寒いし助けに行こうとも思わなかった。どうするのかなと思って観ていると、父はすぐバイクを起こし、何事もなかったかのように走り去っていった。
夕方、仕事から帰ってきた父は脇腹のあたりに痛みを訴えていた。母が「肋骨でも折れとるんじゃない?」そう言っていた。
父は次の日、あまりの脇腹の痛さに耐えきれず、病院に行ったようだ。父が通り過ぎた後、湿布の匂いが鼻をくすぐった。
病院での診断の結果は、肋骨が二本折れていた。だが、その過程で、恐ろしいものが父の体から発見された。あの卵大のしこりは、父の体に巣食った癌そのものだった。当時は病名を患者に直接伝えてはならないという、風習めいたものがある時代だった。
父は、酒やタバコを浴びるほどに嗜んでいたので、目の白身部分は黄色くなり、黄疸という症状が出ており、肝臓が悪いのは明白だった。その結果、父は肝硬変という名目で入院して治療を受けることになった。実際は肺がんと肝硬変、その両方だったようだ。
父自身が本当の病名を知るのは、もう少し先のことになる。
父が病名を知ったときの背景は、このような感じだったそうだ。ある日の担ドクターの不手際により、父は自分の病名を知った。
「キャンサー」
それが父の病名だった。うかつにもその医師は、父がその単語の意味を知らないと思ったのか、不用意に口走ったそうだ。
この話は、父が最後の一時帰宅をしたときに、私の部屋に勝手に来て、私と二人でベッドに腰掛けて話してくれた。
ベッドがきしむ音。私からーメートル離れて、斜めに私の方を向いて座り、痩せた手で頬をさすりながら、寂しそうに「お母さんを頼む」そう言っていた光景を覚えている。
私が病院に行くたびに、父は痩せて衰えていった。ある日、放射線治療を終えた父と出くわしたことがある。母に支えられてふらつきながらベッドに横たわると、歯の根も合わないくらい震えながら「寒い寒い寒い寒い」そう言いながら、ベッドがガタガタ震えるほどの激しさで、父は地獄の底でのたうち回って苦しんでいた。
それからしばらくして、父の体には栄養チューブ(胃瘻)、尿や便を排出するチューブ、点滴、その他わけのわからないチューブや線が痛々しく、体の深くに差し込まれた。母に後から聞かされたのは、「ワシを殺してくれ、殺してくれ」それが叶わないとなると、自分で窓から飛び降りようとしたそうだ。しかし、その頃には体力がないので、起き上がるのがやっとだったからできなかったと言っていた。地獄の苦しみが二十四時間絶え間なく父を痛めつけたのだろう。
その頃からだろう、モルヒネが投与され出したのは。私が次に父に会ったときは不思議なくらい静かだった。もう会話もままならなかった。父の目を見たら焦点が全く合っておらず、死んだような目をしていた。目が曇っているというのは、あのような目をいうのだろうなと思った。
その凄惨の日々の中でも、強烈に私の記憶に焼き付いていることがある。父は、そんな状態になっていてもまだ仕事をしていた。私が面会に行ったときのこと、部屋に入ると、そばで母が椅子に座り、父は枯れ枝のように細くなった手でペンを持ち、母がその手を持って支えている。小さいメモ帳に向かって何かを書いている。
三角や丸、そしてたくさんの線。何かの記号を書きながら何かを喋っていた。父は土木工事の監督をしていた。
今の私たちがあるのは、家族を傷つけ続けたろくでなしのこの人が、それでも一生懸命に働いてくれて養ってくれたからなんだと、その壮絶な光景の中に、見たこともない、働いているときの父のたくましい姿を見た。
母が「こんな時でもこの人は仕事をしているね」そう言って、静かな目で父を見ていた。その父のメモは、母の手により今でも大切に保管されている。




