第6話 泣き虫ドラゴン
雲龍珠。十三歳。中学一年生。干支は辰——ドラゴン。
端末のデータを何度も読み返した。
辰。十二支の中で、唯一の架空の動物だ。子はネズミ、丑は牛、寅は虎——すべて実在する地球の動物なのに、辰だけが龍。この星には実在しない、想像上の生き物。
なぜ一つだけ架空の動物が混じっているのだろう。地球の文化は時々、私の理解を超える。
しかし、ドラゴンといえば、この星の物語では最強クラスの存在だ。プリンセスキュートにも、ムーンブレイカーズにも、龍は強大な力の象徴として描かれていた。
名前からして「雲龍」。雲を纏う龍。とても強そうだ。
期待が高まる。今度こそ、まともなヒロイン候補かもしれない。
珠が住んでいるのは、私たちの拠点がある街から電車で十分ほどの場所だった。
電車。地球の公共交通機関だ。レールの上を走る長い箱型の乗り物に、大勢の地球人が詰め込まれて移動する。アルケオン・リングには転送装置があるので、箱に詰め込まれて移動するという概念自体が新鮮だ。
ある日の放課後。学校が終わってすぐに駅に向かった。翔子たちには「新しい候補生を迎えに行く」とだけ伝えてある。
駅。改札。ICカード。センターが地球の交通カードを複製して支給してくれたものだ。使い方は睦が教えてくれた。
「ミルちゃん、これかざすだけやで〜。簡単〜」
その言葉を思い出しながらカードをかざすと、ゲートが開いた。なるほど、便利だ。アルケオンの生体認証に比べると原始的だが、この星の技術水準では十分に洗練されている。
ホームに立つ。電車が来た。ドアが開く。人が降りて、人が乗る。整然としている。この国の人々は行列を作るのが得意だと学んだが、その通りだ。
車内はそこそこ混雑していた。吊り革——天井から吊り下がった輪——に掴まる。元々、動物の皮で作られた輪がぶら下がっていたことが語源らしいが、今は塩化ビニール製の輪がぶら下がっている。この国には、素材が変わってもそのままの名称が使われる傾向が随所にある。やはりこの国の言語はややこしい。やがて電車が動き出すと体が揺れる。慣性の法則。当然だが、新鮮だ。アルケオンの乗り物には慣性制御があるので、揺れない。
窓の外を景色が流れていく。住宅街、田畑、小さな川。地球の風景は、アルケオンの歴史で習った母星の風景によく似ている。
十数分後、目的の駅に着いた。
改札を出て、端末のデータに従って歩く。珠の中学校は下校時刻を過ぎている頃だ。通学路で待てば会えるはず。
通学路。住宅街の中の、狭い道。電柱が並んでいる。静かな街だ。
端末で珠の顔を再確認する。長い髪、怯えたような目——
「きゃああああああ!!」
悲鳴が聞こえた。
通学路の先、植え込みの前で、一人の少女が道路に座り込んでいた。長い髪。端末の写真と一致する。
雲龍珠だ。あっさり見つけた。
早速彼女の元へ駆け寄った。
「大丈夫ですか!? 何があったんですか!?」
珠は地面に座り込み、両手で顔を覆って震えていた。
「む、む、む虫……!」
「虫?」
植え込みの葉の上に、小さな青虫が一匹いた。確か何か昆虫の幼体だ。体長三センチほど。のんびりと葉を食べている。
これか。
「だ、大丈夫ですよ。あれは——」
「いやぁぁぁ! こっち見てる!!」
見ていない。青虫にこちらを認識する視力はないはずだ。
珠は私の背中に回り込み、制服の裾を掴んだ。震えている。本気で怖がっている。
——この子がドラゴン?
データの「極度の臆病。恐怖への耐性:著しく低い」は、こういうことだったのか。
「あの……雲龍珠さん、ですよね?」
「え……? なんで名前……」
「私はミルティナ。お話したいことがあって来ました」
「お、お話……?」
珠がおそるおそる顔を上げた。怯えた目。涙の跡。鼻が少し赤い。十三歳にしては小柄で、百四十センチあるかないかだ。
「あの虫、もう行きましたよ」
「ほ、ほんと……?」
振り向いて確認する珠。青虫は葉の裏側に移動していた。
「……よかった」
心の底から安堵している。青虫一匹に対して。
近くの公園のベンチに座った。珠は私の隣にくっつくように座っている。
「あの、ミルティナ……さん?」
「はい」
「さっきの虫のこと……笑わないんですね」
「笑いませんよ。怖いものは怖いのですから」
珠が、少し驚いたような顔をした。
「みんな笑うんです。虫が怖いとか、暗いのが怖いとか言うと。中学生にもなって、って」
「私は笑いません」
本当のことだ。私自身、この星に来たばかりの頃は何もかもが怖かった。知らない星、知らない文化、知らない言語。今でも時々、怖い。
「珠さん、他に怖いものはありますか?」
「……たくさんあります」
珠は指を折り始めた。
「虫。暗いところ。高いところ。大きな音。犬。猫。鳥。蛇。雷。地震。お化け。注射。歯医者。先生に当てられること。知らない人に話しかけられること……」
指が足りなくなった。
「あと、自分の影が急に動くとびっくりします」
自分の影……。
この子がドラゴンのヒロイン候補。
雲を纏う龍。強大な力の象徴。
自分の影に驚く。
——何かの間違いではないのか、センター。
「……珠さんは、勇気のある人ですね」
「えっ?」
「それだけ怖いものがあるのに、毎日学校に通って、外を歩いて、今もこうして知らない人の隣に座っている。それは、勇気がなければできないことです」
珠がぱちぱちとまばたきした。そんなことを言われたのは初めて、という顔だった。
ここで本題を切り出すべきか迷ったが、まだ早い気がした。もう少し珠のことを知ってからにしよう。
「少し歩きませんか? この辺りは初めてなので、案内してもらえると嬉しいです」
「あ、はい……この辺はあんまり何もないですけど……」
珠は不安そうだったが、私の隣を歩き始めた。袖をちょこんと掴んでいる。
住宅街を抜けて、少し広い通りに出た。商店街が見える。
「あの辺にパン屋さんがあって——」
珠が説明しかけたとき、背後から大きな影が差した。
振り向くと、大型トラックが通り過ぎるところだった。夕陽を背にしたトラックの影が、私たちの前に長く伸びている。ただそれだけのことだ。
しかし珠は——
「ひっ!」
悲鳴を上げて、背を向けて走り出した。私は追いかけた。
「だ、大丈夫ですよ。ただのトラックの影で——」
「で、でも、おっきい影が……!」
必死で逃げる。影が怖いのだ。自分の影ですらびっくりするのだから、大型トラックの影など耐えられないのだろう。
「大丈夫ですって!」
珠がおそるおそる足を止め、こちらを見た。トラックはとっくに通り過ぎている。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいですよ」
すると、私の背後から犬が現れた。大型犬だ。飼い主の散歩中らしいが、リードが長く、こちらに向かって歩いてくる。
「い、犬……!」
珠が固まった。犬は人懐っこそうに尻尾を振っている。攻撃的な様子はまったくない。
「大丈夫ですよ。尻尾を振っているのは友好の——」
「いやぁぁ!」
珠は私の手を振り払い、またまた反対方向に走り出した。
「珠さん! 待って!」
追いかける。珠の足は速い。もしかして恐怖で、この子は驚異的な身体能力を発揮するのか。
角を曲がった。その先に——
「行くぞおおおお!!」
「おぉぉぉぉ!」
大声を上げる集団がいた。ジャージ姿の男子学生たち。ランニングの掛け声を上げながら走ってくる。運動部の練習だろう。
「ぎゃあああ!」
珠は方向を変えて走った。大声、大人数、急な遭遇——怖いものリストの複数が同時に押し寄せている。もはやパニックだ。
「珠さん! 落ち着いて!」
追いかけるが、珠は恐怖に駆られて周囲が見えていない。商店街を突っ切り、裏道に入り、坂を駆け上がり——
気がつくと、古い建物の前に出ていた。
三階建て。外壁は薄汚れ、窓ガラスが曇っている。入口の看板には「市民会館」と書かれていて、「閉館」という張り紙がされてあった。しかし、扉が半開きになっている。
珠は走る勢いのまま、その扉の中に飛び込んでしまった。
「珠さん!」
私も後を追って建物に入った。
中は薄暗い。使われなくなって久しいのだろう。埃っぽい空気。天井が高い。ロビーには古びた受付カウンターと、ホールへ続く廊下がある。
珠は壁に背を預けて、肩で息をしていた。目に涙が浮かんでいる。
「珠さん、大丈夫ですか」
「はぁ……はぁ……ご、ごめんなさい……急に走っちゃって……」
「いいんですよ。怖かったんですよね」
「……あの」
珠が、おそるおそる周囲を見回した。
「この建物……学校で噂されてたところです」
「噂?」
「……出る、って」
「出る? 何がですか?」
「お、お化けが……」
珠の声が震えた。この上なく怖い場所に、よりによって自分で飛び込んでしまったことに気づいたらしい。
「そんな非科学的なこと——」
言いかけた、その瞬間。
バン
入口の扉が閉まった。
「ひっ!」
珠が私にしがみついた。
「か、風でしょう……さっきも風が——」
自分の声が震えていることに気づいた。落ち着け、ミルティナ。あなたはトレーナーだ。ここで怯えてどうする。
照明が灯った。
いや、照明ではない。廊下の奥から、赤い光が脈動するように漏れ出ている。有機的な光だ。地球の技術ではない。
嫌な予感がした。
「珠さん、私の後ろにいてください。これから目にすることに驚かないでくださいね」
自分のブレスレットを二回タップ。銀色の光、猫のヘルメット。スペーシーキャット。
「ええええ?」
珠の驚きの声をよそに、光線銃を構えた。
廊下の奥から——何かが、来る。
足音。重い。規則的ではない。引きずるような、ぬめるような音。
それが、ロビーに姿を現した。
黒い塊。形状は不定形で、絶えず蠢いている。表面に赤い光が走り、二つの点が——目のように——こちらを見つめている。
一体なんだ。床に触れた部分が、タイルを溶かしている。
「なに……あれ……」
珠が声を失った。
私は撃った。光線銃、出力三。光弾が黒い塊に命中したが——表面で弾かれた。
「効かない……!?」
出力を上げる。五。もう一発。今度は少し削れたが、すぐに再生した。しかも大きくなっている気がする。
黒い塊が加速した。こちらに向かってくる。
私は珠を庇いながら後退した。もう一発撃つ。六。塊の一部が弾け飛んだが、飛んだ破片が壁に張りつき、新たな小型の塊として動き始めた。
増えた。
「嘘でしょう……!? 増えるの!?」
「珠さん、走って! 出口の方に——」
出口の扉に体当たりした。開かない。ロックされている。
小型の塊が、壁を伝って天井に広がっていく。包囲されつつある。
通信デバイスが鳴った。
「ニャンデーレ君! そこから離れろ!」
「指導官!? これは何ですか!?」
「わからない。だが、候補生を狙っている可能性がある。君より先にその子を見つけていたようだ」
「先に……!?」
「説明は後だ。まずはその場を切り抜けろ」
通信が途切れた。
候補生を狙っている何かが、この星に潜んでいる——?
考える暇はなかった。天井の小型の塊の一つが落下してきた。私は光線銃で撃ち落としたが、その塊は足元で二つに分かれ、私の足にへばりついて。そして足に巻きつき、私はバランスを崩して床に倒れ込んだ。
「くっ——!」
動けない。足が固定されている。引っ張っても、捻っても、びくともしない。
——まずい。本当にまずい!
黒い塊の本体が、再び近づいてくる。
「珠さん!」
私は鞄から変身ブレスレットを取り出した。黄緑色。珠のために用意してきたもの。
「これを!」
「え……?」
「説明は後でします! このブレスレットを手首につけて、表面を二回タップして!」
珠が、震える手でブレスレットを受け取った。手首に巻く。タップする——
黄緑色の光が珠を包んだ。
光が弾け、変身が完了する。黄緑のボディスーツ。ドラゴンをモチーフにしたヘルメット。腰にはベルト、光線銃、多機能ツール。
「え……え……? なにこれ……」
変身した珠が、自分の姿を見下ろしている。しかし——
動かない。
変身しても、珠の足は震えたままだった。膝がガクガクと笑い、光線銃に手を伸ばすこともできない。
「珠さん! 光線銃を使って! あの黒いものを——」
「で、でも……怖い……動けない……」
黒い塊が、じわじわと距離を詰めてくる。
私は——鞄の中のムードシフターに手を伸ばした。
「珠さん、これを使って!」
ムードシフターを差し出した。「勇気」のモード。
「これを吸えば、怖くなくなります。一時的にですが——」
珠が、涙目でムードシフターを見た。手を伸ばした。
その瞬間——天井から小型の塊が落下し、ムードシフターを弾き飛ばした。
ムードシフターが床を転がり、塊の破片に呑み込まれた。
「あ——」
ムードシフターが使えない。
黒い塊の本体が、もう目の前にいる。赤い光が脈動し、触手のように伸びた部分が珠に向かって——
「来ないで!!」
珠が叫んだ。涙が溢れた。恐怖で、体が凍りつくような恐怖で、涙が止まらない。
「いや……いや……わぁぁぁん!」
珠は泣き叫び始めると、黒い塊の本体に突進し、体当たりした。
黒い塊の本体は勢いよく倒れ、体当たりされた部分が弾け飛んで消滅した。そうか、光線銃では光線のエネルギーを吸収したが、物理的な衝撃に弱いのかもしれない。
「うわぁぁぁぁぁぁ!!」
珠が泣き叫びながら、黒い塊本体にまたがり、小さな子が駄々をこねるように叩き続けている。
小さな拳の衝撃が黒い塊を直撃し、本体が歪み、千切れ、蒸発する。本体が小さくなっていくと、壁に広がっていた小型塊も消滅していった。
天井、床、壁——建物中に散らばっていた全ての塊が、遂に全て消滅した。
私の足首を拘束していた破片も消え、自由になった。
「うぉぉぉぉぉ!」
完全に野生化したような珠は、雄叫びをあげていたが、脅威がなくなると突然静かになった。
建物は静寂に包まれた。入口の扉のロックが外れ、外からの夕陽が差し込んでくる。
珠は——その場にへたり込んでいた。ブレクレットがはずれ、変身が解除されて、制服姿に戻っている。泣きながら、呆然としている。
「ひっく……ひっく……」
私は足を引きずりながら、珠の前に膝をついた。
「珠さん」
「わたし……何が……今の……」
「珠さんがやったんです」
「で、でも……私、何も……ただ怖くて……泣いてただけで……」
「怖かったんですよね」
「はい……」
「逃げたかったですよね」
「はい……でも……ミルティナさんが動けなくて……あれが近づいてきて……」
「怖かったのに、立ち向かった。あなたの恐怖が、あなたの力を引き出したのです……珠さん……」
私は珠の手を取った。まだ震えている。冷たい手だ。そして、私が珠に会いにきた理由を全て話した。
自分が地球の人間ではないこと。ヒロイン候補生のこと。変身スーツのこと。
「あなたは自分の弱さを知っている。だから、人の痛みや恐怖がわかる。あなたこそ——ヒロインに向いていると思います」
珠の目が見開かれた。
「ヒロイン……私が……?」
「はい」
珠は——驚き、怯え、また泣きそうになりながらも——最後には。
「……怖いけど……やってみたいです」
泣きながら、頷いた。
ブレスレットを、もう一度珠の手首に巻いた。今度は——珠自身の意志で。
通信デバイスが鳴った。
「ニャンデーレ君。よくやった」
「指導官……あの黒い塊は何だったのですか」
「正確には把握できていない。だが、センターより先に候補生に接触しようとする何者かの存在が確認された。今後も注意が必要だ」
「やはり……この星に、何かが……」
「詳しいことがわかれば追って連絡する。今は彼女を安全に送り届けろ」
「了解しました」
「それと、珠君」
私の通信デバイスの音声出力が外部に変換され、珠がびくっとした。
「だ、誰ですか……?」
「そこにいるニャンデーレ君の指導官ダルマイヤックだ。顔は見せられないが、声だけで勘弁してくれ」
「は、はい……」
「君は今日からウィンドラゴンだ」
「ウィン……ドラゴン……」
「ウィン——勝利のドラゴン。君の秘めた力で、平和を勝ち取れ」
珠の目が、きらりと光った。
「勝利の……ドラゴン……」
「かっこいい名前だろう?」
「……はい!」
珠が、泣き跡だらけの、ぐしゃぐしゃの顔で——笑った。
珠を家まで送り届けた後、帰りの電車に乗った。
窓の外は暗くなっていた。地球の夜は暗い。アルケオンの人工光に慣れた目には、この暗さが少し怖い。
今日起きたことを整理する。
あの黒い塊。あれは地球の生物ではなかった。明らかに、この星の技術水準を超えた存在だった。
ダルマイヤック指導官は「候補生を狙っている何者かがいる」と言った。
やはり——私がこの星に派遣された理由は、ただの訓練ではない。この星は何らかの脅威に晒されている。センターが歴史的に行ってきたことと同じだ。外部からの侵略に備えて、ヒロインを育成する。
今日はたまたま珠と一緒にいたから対処できた。しかし次は? 他の候補生たちは大丈夫だろうか?
端末を開いた。YARNのグループ「ヒロインズ」に打った。
『新しい候補生が見つかりました。雲龍珠さん、十三歳です。辰のヒロイン。少し怖がりですが、とても強い子です。みなさん、よろしくお願いしますね。——ミルティナ』
翔子から即レス。
『ドラゴン!!!かっけぇ!!!!早く会いたい!!!!!!』
睦から。
『わぁ〜、楽しみやなぁ〜。怖がりさんなんや〜。うちがいっぱいお店連れてったるわ〜』
梵から。
『Got it』
いつも既読がつくのみだったが、少しは仲間意識が生まれたのだろうか。
電車の窓に、自分の顔が映っている。少し疲れているが口元は緩んでいた。——悪くない顔だ。
こいつらなんかヒロインじゃない、とは——今日は、言えない気がする。
珠は怖がりで、泣き虫で、虫一匹で悲鳴を上げる。
でもあの瞬間——泣きながら、「来ないで」と叫んだ瞬間——珠は、確かにヒロインだった。
モーニングナイトの台詞を思い出す。
「恐れるな。夜は必ず明ける」
珠の夜は、まだ長いかもしれない。
でも、私がその傍にいよう。
朝の光が来るまで。




