第3話 正しい力の使い方
気がついたら、朝だった。
端末の画面には「プリンセスキュート 最終話 永遠の絆! キュートスパーク・フォーエバー!」の文字が表示されている。全話、完走した。
目が痛い。
トレーナーとしてこの星のヒロイン文化を学ぶため——という大義名分で検索を始めたのが昨夜の二十一時。地球のネットワークに入り込み、映像配信サイトからプリンセスキュートの全話を発見し、「一話だけ」と思って再生ボタンを押した。
全四十八話。
途中でやめられなかった。アルケオン・リングのテクノロジーで、拠点であるこの自室の時間の流れを周りの2倍に設定した。 第十二話でキュートブリーズが覚醒する回で涙が止まらなくなり、第三十話の裏切りの展開で端末を握りしめ、最終話のEDで号泣した。
——私は何をしているのだ。
時間の流れをデフォルトに設定し、壁にかけた地球用の時計を見る。午前七時。一睡もしていない。ただし、今日は地球の暦で言う「土曜日」。学校は休みだ。
それなら、今日やるべきことがある。
端末を開いて三人にメッセージを送った。この星の通信アプリ「YARN」というものを昨日インストールしたばかりだ。翔子が「グループ作ろ!」と言って勝手に設定してくれた。グループ名は「ヒロインズ」。もう少しなんとかならなかったのか。
『本日、地球時間十時に私の拠点に集合してください。変身スーツの訓練を行います。住所はこちらです。——ミルティナ』
送信。三秒で翔子から返信が来た。
『いくいくいくいく!!!!』
朝七時に即レス。もう起きているのか。
梵からは既読がついたが返信はない。承諾と解釈する。
睦からは十分後に返信が来た。
『おはよ〜。いくいく〜。なんか持ってくもんある〜?』
語尾が全部伸びている。
『特にありません。身軽な服装で来てください』
『はーい。お菓子持ってくな〜』
訓練なのだが。
——午前十時。
チャイムが鳴った。この星の住居にはチャイムという来訪者通知装置がある。古典的だが便利だ。
ドアを開けると、三人が立っていた。 翔子は少しダブついたジャージ。昨日治したはずなのに、もう膝を擦りむいている。
梵はシックな色のワンピースで、膝まで隠れるソックスを履いている。かわいい。
睦はロングTシャツにジーンズ。やはり胸が大きい......。
センターで習った地球の服装だ。
プリンセスキュートの登場人物たちも、このような服装だった。 私といえば、学校で支給された体操服なるものを着ていた。地球用の私服を揃えなければ。 睦の手には大きな紙袋があった。お菓子、というにはかなりの量だ。
「おじゃましまーす!」
翔子が靴を脱いで上がり込んだ。この国では室内で靴を脱ぐ習慣がある。これは合理的だと思う。
アルケオン・リングでも居住区画では同様だ。
「うおっ、なにここ!?」
翔子が部屋を見渡して声を上げた。
私の拠点は、外観こそ地球の一般的な住居だが、内部はセンターが改装している。壁は半透明の素材で、触れると色や透過率が変わる。照明は天井全体が発光する面光源。家具は最小限だが、テーブルも椅子もアルケオン規格で、地球のものとは形状が違う。角がなく、曲線で構成されている。
「なんか......宇宙船みたい」
「宇宙船ではありませんが、センターの資材で構成されています」
「すっげぇ! ここ触ったら色変わる!」
翔子が壁をべたべた触り始めた。壁が翔子の手に反応して、赤、青、緑と変わっていく。
「......静かだね」
梵が部屋の中央に立ち、耳を澄ますように目を閉じた。
「はい。遮音処理がされています。外部の音はほぼ——」
「いい」
梵は満足そうに頷いた。この子は静かな空間が好きなのだろう。九歳で高校にいれば、騒がしい環境には疲れるはずだ。
「ミルちゃん、お菓子どこ置いたらええ〜?」
睦がきょろきょろしている。紙袋の中身をちらりと覗くと、クッキー、せんべい、チョコレート、グミ——
この国の菓子の詰め合わせだ。これはプリンセスキュートを見て、覚えたばかりだ。映像の中の彼女たちもよく食べていた。
「そのテーブルに適当に......食べるのは訓練が終わってからにしましょう」
「えー」
睦と翔子の声が揃った。
「まず訓練です」
私は部屋の奥にある装置に触れた。床の一部が開き、地下への階段が現れる。
「うおっ! 秘密基地!」
翔子が真っ先に駆け下りていった。
地下のトレーニングルームは、地上の居住空間よりさらに広い。天井が高く、壁面全体がディスプレイになっている。部屋の中央には、複数のポッドが並んでいた。
「これは何?」
梵がポッドを見上げた。
「バーチャル・トレーニング・システムです。このポッドに入ると、仮想空間で訓練ができます。怪我の心配もありません」
「えっ、VRってこと? すごない?」
睦がポッドの表面を撫でた。
「VRよりも高度です。五感すべてが再現されます」
「あー、フルダイブってやつ? アニメで見たことあるわ〜」
この星のフィクションは、けっこう良い線をいっている。
「では、まずこれを」
私は三人にそれぞれの変身アイテムを手渡した。手首に巻くブレスレット型のデバイス。翔子のは金色、梵のは黒、睦のは緑。
「これが変身アイテムです。起動方法は——」
「うわかっこいい!」
翔子がブレスレットを光にかざした。
「これどうやって変身すんの? なんか叫ぶの? プリンセスキュートみたいに『キュート・トランスフォーム!』とか!?」
「叫ぶ必要はありません。ブレスレットの表面を二回タップしてください」
「......地味」
「機能的です」
とはいえ、翔子の言うことも理解できる。声紋認証に設定することは可能なはずだ。 ともかく今は後回しにして、まずはバーチャル空間で試す。四人でポッドに入った。
目を開けると、果てしない白い空間に立っていた。天井も壁もない。足元だけが固い感触を返してくる。
「おおおお!」
翔子がぐるぐる見回した。
「なんもない! すげぇ!」
「なんもないことに感動するの、サル子だけだよ」
「ここにいろいろな訓練環境を構築できます。まず、変身してみましょう」
三人がブレスレットを見つめた。
「では、ブレスレットを二回タップ」
翔子が最初に動いた。勢いよくブレスレットを叩く。
瞬間——翔子の体が金色の光に包まれた。
光が渦を巻き、全身を覆っていく。足元から頭頂部へ、螺旋状に駆け上がる光の粒子。シルエットが一瞬だけ浮かび上がり、光が弾けた。
「うおおおお!!」
変身後の翔子が、自分の姿を見下ろした。
「すっげえ!かっこいいじゃん!」
全身を覆うボディスーツ。金色を基調に、関節部分にはカーボン調の黒い補強材。腰にはベルトが巻かれ、右腰に光線銃、左腰に多機能ツール。頭部には猿をモチーフにしたヘルメット。機能的で、無駄がなく、実用的で——
——華やかさのかけらもなかった。リボンは? フリルは? 髪がぶわって伸びたりしないのか?
プリンセスキュートを見たばかりの私の想像は、見事に裏切られた......。
続いて梵が静かにタップした。黒い光に包まれ、変身。ネズミをモチーフにしたヘルメットと、黒いボディスーツ。体が小さいのでヘルメットが相対的に大きく見える。
「......まぁ、こんなものか」
梵は特に気にしていない。
最後に睦がおそるおそるタップした。緑の光。犬のモチーフのヘルメット。緑のボディスーツ——
「ひゃっ......!」
睦が、自分の体を見て悲鳴を上げた。
ボディスーツが体に完全にフィットしている。完全に。胸のラインが、腰のくびれが、そのまま布地の上から浮き出ている。隠すべきところは隠れているが、シルエットは丸出しだった。
「い、いやんっ......! これ、すごい恥ずかしいやん......!」
睦が両腕で胸を隠した。顔が真っ赤だ。
「ムッちゃんすげぇ......」
翔子が感心した目で見ている。感心するな。
梵が無言で睦に近づき、スーツの上から胸を突いた。
「やっ——!」
「弾力、生身と同じだ」
「やめてぇやぁ......!」
「梵さん! 今は訓練中です!」
私は通信デバイスを起動した。言いたいことがある。
「指導官」
「なんだ」
「このスーツのデザインについてですが」
「いいだろう。機能的で」
「機能的? プリンセスキュートのような......あ...いえ、もう少しこの国に合った華やかな変身を期待していたのですが——」
自分でも何を言っているのかわかっている。わかっているが、言いたかった。
「プリンセス何? ニャンデーレ君、君は昨夜、地球のネットワーク環境に入り込んで何を見ていたんだ」
まずい、私的な時間帯はモニタリングされていないが、端末のアクセスログはセンターで筒抜けだ。
「あ...その、この星のヒロインのあり方を研究していました......ですのでそれに近いデザインになるものと思っていたので......」
「そのデザインは機能を追求した結果だ。全身スーツは可動域を最大化するため。スーツの厚みを極限まで薄くしているのは軽量化のためだ。それでも強度は凄まじい。この星のいかなる武器でも破壊することは不可能だ」
「それは理解していますが、もう少し、その、装飾というか——」
「君がイメージしているものはなんとなく分かるぞ。私もそちらの文化には精通しているからな。フリルをつけたら空気抵抗が増す。リボンは邪魔だし、スカートは可動域を制限するだけだ。却下だ」
正論だ。正論なのだが——睦のスーツだけボディラインが強調されすぎていないか。スーツを薄くすれば当然そうなるが、その「当然」を指導官が予見していなかったはずがない。
「......了解しました」
「気に入っている者もいるようじゃないか。いい反応だ」
「はあ——」
「あの反応をもっと引き出せ。面白い」
面白い?
通信が切れた。面白いとはどういう意味だ。
「ミルちゃん、これはこれで、ヒーロー戦隊みたいじゃん!」
翔子は全く別の感想を持っていた。ヘルメットを被ったまま、ポーズを決めている。 ヒーロー戦隊も予習済みだ。彼らは基本男女五人組である。それぞれのイメージカラーで、確かにボディスーツとヘルメットを纏っている。
「これって名前あるのー?」
変身後の名前が端末に表示されている。
「あ、はい。翔子さんはパッションモンキー......ですね」
「おお!パッションモンキー! 参上!」
パッション? この子が? 翔子は拳を突き上げ、仮想空間の中でくるりと回転してみせた。動きやすさは確かに良いらしい。
「あのさぁ、この銃って撃てんの?」
「光線銃ですね。ベルトの右側に装着されています。エネルギー弾を発射できますが——」
翔子はもう撃っていた。
金色の光弾が仮想空間を飛び、遠くで小さな爆発を起こした。
「すっっっっげぇ!!!」
「ちょっ!指示する前に撃たないでください!!」
「ムッちゃんは何!?」
「あ、え〜と、バウンドドッグ......ですね」
バウンド? 弾む犬? まさか......。
「ほら、ムッちゃんも撃ってみようよ!」
「え、えぇ〜......?」
睦がおそるおそる光線銃を構えた。内股気味に及び腰だ。
「あの......これ、ほんまに撃ってええの〜?」
「バーチャル空間ですから、今は——」
睦が引き金を引いた。緑の光弾が飛び、仮想空間の壁に着弾。着弾点から光の波紋が広がった。
「うわ......! すごいやんこれ......!」
睦の目が少し輝いた。恥ずかしさが、徐々に好奇心に負け始めている。
「ボンちゃんは〜?」
「梵さんは、ミルキーマウス......」
ミルキー? 黒いんですけど。
「ボンちゃんも撃ってみる〜?」
「......今マニュアル読んでる」
梵は多機能ツールに搭載されている端末でマニュアルを読んでいる。スクロールが異常に早い。
「光線銃の出力は七段階。ベルトの左側のこのツールは多機能で、端末機能、照明、通信、バリア生成、計測が可能。スーツの耐久値はこの星の通常兵器では破壊不可能。飛行機能はオプションだけど、現在はインストールされていない」
「梵さん、全部覚えたの?」
「......そう書いているから」
この子が一番戦力になるかもしれない。
「ミルちゃんも変身して〜」
そうだ、私にもブレスレットが支給されていたのだ。 二回タップする。銀色に包まれ、猫をモチーフにしたヘルメット、銀色のスーツ。うう、はずかしい。
「ミルちゃんの名前は〜?」
そうだ、自分の名前は自分で考えたんだ。センターが考えた名前なんかより断然かっこいい。三人ともよく聞くのだ。
「私は……スペーシーキャット!」
決まった......。
三人の感心した表情が目に浮かぶ......
......何? 三人とも真顔で静まり返っている。なぜなんだろうか?
「宇宙的猫......」
梵がボソッとつぶやく。
「ダサいね」
翔子が悪気なくはっきり言った。
「サル子ちゃん、悪いでぇ〜」
睦が苦笑いしている......そんな......かっこいいと思ったのに......。
膝から、力が、抜けた。
少しの間、放心状態になった私は立ち直る時間がほしくて、しばらく三人に自由に装備を試させた。
翔子は光線銃を乱射し、睦は恐る恐るツールの機能を試し、梵はマニュアルに記載された機能を一つずつ検証している。
そして私は——急に睡魔に襲われた。
そういえば、一睡もしていないのだった。プリンセスキュートを四十八話見たせいだ。こんなことではトレーナーとして失格だ。しかし、バーチャル空間の中なら怪我の心配はないし、三人ともそれぞれのペースで装備に慣れ始めている。少しだけ——ほんの少しだけ目を閉じても——。
*
「ミルちゃん! ミルちゃん! 起きて!」
肩を揺さぶられて目を覚ました。睦の顔が目の前にあった。
「......私、どのくらい——」
「一時間くらいちゃうかな〜」
一時間!?
飛び起きた。仮想空間を見渡して——
「な、なにこれぇぇぇ!?」
白かったはずの空間が、滅茶苦茶になっていた。
「ミルちゃん、これ見て〜」
睦はベルトのツールでバリアを壁にして、そこに光線銃を反射させる遊びを発見していた。光弾があちこちで跳ね返り、仮想空間がまるでイベント会場のライトアップのようになった。
「綺麗やろ〜」
睦は得意げに笑ったが、仮想空間を見渡して、絶句した。
あたりは、さまざまな訓練用仮想オブジェクトが散乱している。仮想敵の兵隊ロボットや戦闘車両、建物が、空間のあちこちで破壊され、煙を上げている。翔子と睦が光線銃を乱射したことがよくわかる。
また別のところでは、この仮想オブジェクトを使って「障害物コース」が構築されてある。翔子が壁を飛び越え、くるくる回りながら飛び降り、あるいは障害物をくぐり抜けながら、駆け降りてくる。
「イェ〜楽しい〜!」
翔子はスーツの性能を引き出しながら随分楽しげだ。ふと、背後にただならぬ気配を感じた。
振り向くと、仮想空間の一角で、巨大な白と黒の獣が、のしのしと歩き回っている。
どうやら梵の仕業らしい。梵は——光線銃の別の機能を見つけたのだ。
「梵さん、あれは......?」
「パンダ......光線銃の拡大機能を試した」
拡大機能。光線銃には対象物を拡大する機能がある。試すこと自体は構わないのだが——。
「どうしてそれをあの動物に使ったのですか」
「......かわいいから」
「え......?」
巨大なパンダという動物が仮想空間を歩き回っている。シュールすぎる。
「猿渡翔子!」
「は、はいっ!」
翔子がびくっとした。珍しく、私の怒気を感じ取ったらしい。
「夜摩涅梵!」
「......はい」
「乾睦!」
「ひゃいっ」
三人を並ばせた。
「いいですか」
深呼吸した。
「このスーツは戦闘服です。そして光線銃は武器です。殺傷能力が備わっています。ツールだって使い方次第では武器になるんです。遊び道具ではありません」
三人が黙った。
「力を持つということは、責任を持つということです。あなたたちが今やったこと——光線銃の乱射、装備の目的外使用——もし現実空間でやったらどうなりますか」
「......街中パニック?」
翔子が小さく言った。
「それだけじゃ済みません! 壊してしまいます! 建物、道路、人、人々の暮らしもです!」
翔子が唇を噛んだ。
「ヒロインの力は、誰かを守るためにあるんです。自分が楽しむためではないんです」
プリンセスキュートの第三十六話で、キュートブリーズだってそう言っていた。いけない、それは今はどうでもいいことだ。
「力を正しく使うということ。簡単なようで難しいのです。例えば、守る対象と排除する対象が、どちらも悪ではないとき、選択を迫られる瞬間が必ず来るということ。そのとき、何を守るかを自分で決めなければならないんです」
私自身、研修で学んだ言葉だ。先輩トレーナーから何度も聞かされた。
「......ごめん」
翔子が頭を下げた。珍しく、素直だった。
「ごめんなさい〜」
睦も頭を下げた。
「......すみません」
梵も。三人揃って頭を下げている姿は、少しだけヒロインらしく見えた。
「わかればいいです。私も居眠りしてしまって申し訳ありませんでした......。では、今日の訓練はここまでにしましょう」
バーチャル空間から出た。地上の部屋に戻ると、時刻はもうランチタイムを過ぎていた。
「なぁなぁミルちゃん、お昼まだやんな〜?」
睦がお腹を押さえている。
「ごはん食べに行こうや〜。この近くにええ定食屋があるって聞いたんよ〜。サルちゃんらも行こう〜?」
「う、うん…行こう」
翔子が賛同した。ちらちらとこちらを見ている。さっき叱られたことを気にしているのか、妙に大人しい。
「あ、あのミルちゃん、この街の美味しいとこやおしゃれなとこ教えるよ!」
「......ありがとう」
翔子なりに機嫌を取ってくる。もうそんなに怒ってはいないが、悪い気はしない。
四人で外に出た。変身スーツはブレスレットに収納されている。普段着の上からいつでも変身できる仕組みだ。
私はキュートブリーズの普段着と同じデザインの服のデータを端末にインストールし、自室に設置された機械で製造した。袖が大きめのトップスとスカートのようなボトムスだ。可愛い。
私は初めての地球用の私服を着て、三人と商業地区の方へ歩いていく。土曜日の昼下がり、人通りはそこそこある。
翔子と睦が先導する。途中、歩道橋の上から大きなスクランブル交差点が見えた。
歩道橋の上から見下ろすと、交差点は信号待ちの人と車で賑わっていた。土曜日の昼下がり、買い物客が多い。地球の交差点というのは、信号という光の装置で人と車の流れを制御する仕組みだ。なかなか合理的だが、全員が同時に渡り出す「スクランブル」という方式は、見ていてヒヤヒヤする。
「ミルちゃん見てぇ〜、あそこの店のクレープ美味しそうやない〜?」
睦が歩道橋の手すりから身を乗り出して、交差点の向こう側のクレープ屋を指差している。
「あ、あたし知ってるあの店! マジうまいよ! 買ってこうよ!」
翔子が食いついた。定食屋の前にクレープか。この子たちの食欲は底なしだ。
「あのトラック、様子が変だぞ!」
歩道橋の上で、近くにいた男性が声を上げた。
視線の先——交差点に接続する坂道の上から、大型トラックが異常な速度で下ってきていた。
ブレーキ音がしない。コントロールを失っている。
交差点はちょうど歩行者用の青信号に変わったところだった。人々がスクランブル交差点に踏み出し始めている。
「——っ!」
最初に動いたのは、翔子だった。
ブレスレットを二回タップ。金色の光が一瞬で全身を覆い、変身が完了する。
翔子は歩道橋の手すりに足をかけ、そのまま飛んだ。
「翔子さん!!」
歩道橋から交差点までは相当の高さがある。しかし翔子はベルトのツールを操作し、空中に仮想オブジェクトの足場を展開した。あの訓練中の「障害物コース」で身につけた技術だ。
光の足場が階段のように空中に連なり、翔子はそこをパルクールの要領で駆け降りていく。
着地点——交差点の手前で信号待ちをしていた深あおりのダンプトラックの荷台の上。翔子は砂利を積んだ荷台に飛び降りた。
しかし——
「うわっ!?」
思いのほか足を取られた。砂利が翔子の重量と着地の衝撃で崩れ、翔子は膝まで沈み込んでしまった。
「え!? 抜けない!」
翔子がもがいている。トラックは左右に蛇行しながらまだ坂を下り続け、加速をし続けている。交差点に入るまで、あとわずかだ。
私はブレスレットをタップした。銀色の光。変身。
光線銃を構える。トラックを撃てば止められる——
交差点にはもう人が溢れ出している。スクランブル信号で四方から歩行者が渡り始めている。ヘルメットに備わっているターゲットスコープでトラックの運転席を見た。運転手がハンドルに突っ伏している。気を失っているのだろうか。
撃てばトラックは止まる。だが光線の衝撃で車体が横転したら? 歩行者は交差点だけではない。車体が散乱すれば、さらに被害が広がる。運転手だって無事では済まないかもしれない。
悪はどこにもいない。
さっき自分が言った言葉が、頭の中で反響した。守る対象と排除する対象が、どちらも悪ではないとき——。
指が、引き金の上で止まった。
撃てない。さっきあんな偉そうなことを言ったのに、私は——!
「ミルティナさん」
梵の声だった。振り向くと、梵もすでに変身していた。小さな体に黒いスーツ。ヘルメットの下から冷静な瞳がこちらを見ている。
「まず交差点の歩行者を守る。ムツ、バリア」
梵の指示は短く、的確だった。
「うん!」
睦が変身した。緑の光。犬のヘルメット。睦はベルトの多機能ツールを操作し、交差点の入口にバリアを展開した。半透明の光の壁が、歩行者とトラックの進路の間に立ちはだかる。あの訓練中に睦が発見した、バリアを壁にする技術だ。
「これで通行人は守れる。次——トラックを減速させる」
梵が光線銃を構えた。
「ミルティナさん、右前輪。私が左前輪。出力二。同時に撃って」
「両前輪をバーストさせるの?」
「タイヤが潰れればリムが路面を削る。摩擦で減速する」
マニュアルを全部読んだ九歳が、最適解を瞬時に導き出している。
「——了解!」
二人で同時に撃った。
銀と黒、二条の光弾がトラックの両前輪を正確に捉えた。タイヤが弾け、ゴムの破片が飛び散る。
リムが路面に接触し、火花を散らしながら凄まじい摩擦音を上げた。
スピードが落ちていく。睦のバリアの光が、接近するトラックの前面で輝いている。バリアの抵抗も加わり、トラックの速度はさらに鈍った。
——しかし、止まらない。
リムが路面を削りながらも、トラックの重量と慣性がバリアを押し込んでいる。睦が歯を食いしばってツールを握りしめているが、バリアが軋み始めた。
「くっ......重いっ......!」
このままでは交差点に侵入してしまう。
「翔子さん!」
私は歩道橋下のダンプの砂利に埋もれてしまった翔子の方を見た。しかし翔子はいない。そこにはブーツが埋もれたまま残っている——
視線を迫るトラックの方へ目をやると、裸足の翔子がその前に立ちはだかった。スーツの防御がない生身の足のまま。
「翔子さん、ダメ! 足が——」
翔子は変身スーツの強化された両腕を突き出し、トラックの前面を、受け止めた。
金属が軋む。裸足の足が路面を削る。翔子の体が押され、アスファルトの上を滑っていく。足の裏の皮膚が擦り剥けていくのが見えた。
「やめて......! 翔子さん......!」
叫んだ。声が震えていた。見ていられない。でも目が離せない。
「......っ!」
翔子が歯を食いしばる。
「ムッちゃん......!」
「行くっ!」
睦がバリアのツールを片手に持ち替え、翔子の横に並んだ。空いたもう片方の手でトラックを押す。
二人の力。バリアの抵抗。路面との摩擦。
トラックが——
止まった。
交差点の、ぎりぎり手前で。
静寂。
そして——拍手が起きた。
交差点のあちこちから。バリアの向こう側で足を止めていた歩行者たちが、何が起きたのか完全には理解できていないまま、しかし目の前の光景に——異様な格好をした少女たちがトラックを素手で止めたという事実に——拍手を送っていた。
「君たち!大丈夫か!」
どこからともなく数人の男性が駆け寄ってきた。
「運転手のことは我々に任せろ! 君たちは早く離れるんだ!」
「あ、は~い」
翔子が力を抜いた瞬間、膝から崩れ落ちた。
「翔子さんっ!」
「いってて......足が......」
翔子の足の裏は、両足とも擦り剥けて血が滲んでいた。裸足でアスファルトの上を滑ったのだ。
スーツの防御がない部分——生身の代償だった。
「おぶったる!」
睦が翔子の前にしゃがみ込んだ。
「えっ、ムッちゃん——」
「ほら、早く! 足痛いんやろ?」
翔子が睦の背中に乗った。睦が翔子をおぶって立ち上がる。翔子は睦より小柄だから、すっぽりと収まった。
「......ムッちゃん、背中おっきい」
「ええ〜ダイエットせなあかん〜?」
「ああ違う違う! 安心するってこと!」
梵は光線銃を腰に戻し、変身を解除した。静かに状況を確認している。運転手は駆けつけた男性たちに救助されているようだった。周囲の歩行者に怪我はない。
全員、無事だった。
睦が翔子をおぶったまま、歩道橋の下まで戻ってきた。私たちは人目を避けて、歩道橋の影に集まった。全員が変身を解除する。
三人の連携。翔子の即断と仮想オブジェクトの活用。梵の分析と射撃指示。睦のバリアと身体でのサポート。
全部、あの訓練中の「遊び」で身につけた技術だった。翔子の障害物コースが空中の足場に。睦のライトアップ遊びがバリアの応用に。梵のマニュアル速読が的確な指示に。
誰一人、私の指示を待たなかった。
私は——何をしていた?
光線銃を構えて、撃てなかった。どちらも悪ではないとき何を守るかを決めろと、偉そうに講義したのは自分だ。なのに、いざその瞬間が来たとき、引き金を引けなかったのは——自分だった。
梵に言われて、ようやく撃てた。
九歳の子供に、判断を委ねた。
目の奥が、熱くなった。
「ミルちゃん?」
睦が、翔子を下ろしながら私を見た。
「どうしたん? 泣いてるん?」
泣いていた。
涙が止まらなかった。
「......訓練が必要なのは」
声が震えた。
「......私のほうでした」
「ミルちゃん......」
「あなたたちは——すごい。私は、トレーナーなのに、あの場で何もできなかった。梵さんに指示されるまで、撃つこともできなかった。守るべきものを自分で決めろと言ったのに、自分が——」
「ミルちゃん」
翔子が、地面に座ったまま、私を見上げた。足の裏から血が滲んでいるのに、笑っていた。
「あたしさ、歩道橋から飛んだとき、ミルちゃんがすぐに銃を構えたの見えたよ」
「でも、撃てなかった——」
「撃とうとしたじゃん。それが大事なんじゃないの?」
翔子が笑った。傷だらけの笑顔ではなく、少しだけ大人びた笑顔だった。
「......サル子が正しい」
梵が言った。
「迷ったから、最適解が出せた。迷わずに撃ってたら、トラックが横転して歩行者を巻き込んでたかもしれない」
「梵さん......」
「ミルちゃんが迷ってくれたから、うちが動けたんよ〜」
睦が私の手を握った。温かい手だった。
「一人で全部やらんでええやん。四人おるんやから〜」
四人。
トレーナーと候補生ではなく、四人。
「......ありがとう」
涙を拭いた。そして——翔子の前に膝をついた。
「翔子さん、足を出してください」
「え?」
医療デバイスを取り出した。ペン型の器具。先端を翔子の足の裏にかざすと、淡い光が傷口を覆った。
擦り剥けた皮膚が、みるみるうちに再生していく。
「おー......あったかい......」
翔子が気持ちよさそうに目を細めた。
「もう片方も」
「はいよー」
両足を治した。翔子がぴょんと立ち上がり、足踏みする。
「お、治った! ミルちゃんの魔法すげぇ!」
「魔法ではありません。生体組織の修復を——」
「ねえミルちゃん」
「はい、なんでしょう?」
「正しく力使えた?」
私の目から、もう一度涙がこぼれた。
「はい!」
空を見上げた。地球の空は今日も青い。
私はまだまだ未熟だ。トレーナーとして、ヒロインとして、そしてこの星で生きる者として。
でも、一人じゃない。
——この子たちと一緒なら、きっと大丈夫だ。
帰り道、結局定食屋に寄った。翔子がカツ丼を三杯食べ、睦がうどんを頼んで「やっぱりうどんは大阪やな〜」と言い、梵がざるそばを黙々とすすっていた。私は親子丼を食べた。鳥類の卵と親鳥を同時に使う料理——冷静に考えるとなかなかに残酷だが、美味しかった。
——週明け、月曜日の朝。
私は、プリンセスキュートに続いて、ムーンブレイカーズを視聴していたため、始業に遅れそうだった。通学路を駆け足で進んでいると、猛スピードで何かが追い抜いていった。
パッションモンキーの翔子だった。
変身スーツを纏い、ブースター走行している。「遅刻遅刻ー!」と叫びながら、尋常ではない速度で車を追い越していく。
「猿渡翔子ぉぉぉ!!」
追いかけようとした、そのとき。
校門の前で、異様な光景が目に入った。
巨大な猫だ。
校門前の通りで、体長三メートルほどの猫がのしのし歩いている。近所の野良猫だろうか——それを光線銃の拡大機能で巨大化させたに違いない。目を凝らしてみると、その巨大猫の背中に、梵が座って本を読んでいた。
光線銃の拡大機能と、野生動物を手懐ける機能で、猫を乗り物がわりにしているのだ。
「あの......梵さん?」
「なに?」
巨大猫の上から、いつもの無表情で見下ろされた。
「何をしているのですか?」
「......本を読みながら登校したかった......」
「光線銃は! 遊びに使ってはいけないと言ったでしょう!」
「遊びじゃない。読書環境の確保と、登校手段の快適化の両立......」
屁理屈だ。九歳の屁理屈だ。
「今すぐ戻しなさーい!」
通信デバイスが震えた。
「ニャンデーレ君」
「指導官! 聞いてください、候補生たちが——」
「見ている。面白い」
「面白くありません!」
「まぁまぁ。元気があっていいじゃないか」
「元気の問題ではなく規律の——」
「ニャンデーレ君。いいことを教えよう」
「はい?」
「ヒロインに規律は必要ない。必要なのは、自分らしさだ」
「自分らしさ......?」
「型にはめようとするな。彼女たちの個性を活かせ。それがトレーナーの仕事だ」
また、もっともらしいことを言う。この人の言葉はいつも正しく聞こえるのに、どこか信用しきれない。
しかし、土曜日の交差点での出来事を考えると、間違ってもいない。
「......了解しました」
「じゃ、頑張れ」
通信が切れた。直後、端末にメッセージ受信の通知。
今度は、睦から「YARN」の写真付きメッセージ。
それには、ケーキと呼ばれるお菓子を頬張る睦が写っている。しかしそのケーキの大きさが尋常じゃない。拡大機能を使って巨大化しているに違いなかった。「放課後美味しいケーキ屋に行こ!」と能天気に書かれてあった。
「こいつらなんか——」
深呼吸した。
朝からこれだ。
「——ヒロインじゃない!!」




