第12話 ほっぺが落ちる
私がこの地球にやってきてから、どのくらいの時間が経っただろうか。
研修センターの報告書を読み返しながら、ふと、そんなことを思った。
翔子が学校の屋上から落ちるのを目撃してから、三ヶ月といったところか。この地球という星の、日本という国の、高校という教育機関の制服も、いつの間にか、短い袖に変わっていた。
空から、大量の水滴が落ちてくる。この時期になると、やたらと、そういう日が多くなった。人々は傘という道具を広げ、その水滴に濡れないよう、頭上を防いでいる。
窓から街を眺めていると、さまざまな色の傘が、路上を行き交っていた。濡れた路面は高層階の建物を鏡のように映し出し、車輪のついた乗り物が、その水鏡を割って、水飛沫を上げていく。
私は、街を濡らすその光景が珍しくて、写真に収め、アルケオンリングに住む家族に送り届けた。すぐに「綺麗ね」と短い返信が来て、その素っ気なさが、なんだか可笑しかった。
雨。梅雨。
最初は物珍しさでいっぱいだったが、何日も続くと、外に出るのが、途端に億劫になる。やはりこの地球の空は、青く輝き、夜に近づくにつれて、この星の甘酸っぱい果物の色に変わっていく方が、ずっといい。
幸い、この街には地下施設も多く、サブウェイと呼ばれる地下を走る公共の乗り物もあって、傘を使う機会は、思ったより少なくて済む。
アルバイトをするようになり、この国の貨幣を手に入れてからは、私は、目についたものを、すぐに買うようになってしまった。傘も、みかんという果物も、睦おすすめのスイーツも、カバンの留め具につけた小さなアクセサリーも、ぜんぶ、この国の貨幣で購入したものだ。
……本当は、欲しいフィギュアのために、貯金をしているはずなのだが。気づけば、財布の中身は、いつも風通しがいい。トレーナーが、これでいいのだろうか。いや、よくない。よくないのだが、この地球には、欲しいものが、あまりにも、多すぎるのだ。
今、私は傘をさして、睦のアルバイト先のカフェへ向かっている。
トレーナーたるもの、候補生理解のために、普段の生活を視察する必要がある。私がアルバイトを始めるきっかけにもなった子だというのに、意外なほど、睦の普段の姿を、私は知らない。
——なんてのは、半分以上、建前である。
この地球のスイーツは、本当に美味い。中でも、睦のいるカフェの「パンケーキ」というものは、絶品なのだと聞いた。視察である。これは、れっきとした、視察なのだ。
「う〜ん、パンケーキ楽しみだね!」
やはり、というか。翔子が、当然のような顔で、ついてきた。
さすがに今日は、雨ということもあって、街中を駆け巡るような真似はしないらしい。ただ、これも当然のごとく、傘というものを持っていない。朝から、ずぶ濡れである。
今は、私にぴったりとくっついて、狭い傘の中に、一緒に収まっていた。
「相合傘だね!」
相合傘。傘を使う文化だからこそ、生まれた言葉だ。意味を知って、いい言葉だと思った。
ムーンブレイカーズに、月燈ひかるとモーニングナイトが、二人で一つの傘に入るシーンがある。この言葉を知って、あの場面に、二人のどんな想いが巡らされていたのかが、初めてわかった。無論、もう一度、見返した。三回見返した。
「べ、別に、翔子さんとは、そういう……」
「あたしはミルちゃん大好き!」
翔子が、にっと笑う。
……まったく。私も、翔子のそういう、嘘のない純真なところは、嫌いではない。梵だって、何も言わないが、きっとそう思っているはずだ。ちなみにその梵は、雨だからと、早々に面倒くさがって帰ってしまった。賢明な判断である。
肩を濡らした翔子が、ぶるりと身を震わせ、犬——いや、猿のように、頭の水気を振り払う。傘の中なのに、私まで、しぶきを浴びた。
睦のいるカフェは、プリンセスキュートやムーンブレイカーズで、主人公たちがよく通う、あのお店そのものだった。
扉を押すと、甘い香りと、柔らかな照明と、低く流れる音楽が、ふわりと迎えてくれる。私は、その雰囲気だけで、もう、心が躍ってしまった。
「いらっしゃいませ〜」
睦が、奥から顔を出す。
白いシャツに、黒の制服、結ばれたネクタイ。ふわりと広がるスカートは、ウエストの部分でしっかりと絞られ、相変わらず、強調すべきところが強調されている。その上から身につけた白いエプロンは、肩のあたりに、可憐なフリルがついていた。
「ムッちゃん来たよ〜! かっわいい〜、メイドさんみたい〜」
これが、日々のヒロイン研究 (アニメ鑑賞)で見た、メイド、というやつか。なるほど。
「コンセプトは、普通のカフェやからね〜」
睦が、ふんわりと笑って、訂正する。
私と翔子は、案内された席につくなり、早速、話題のパンケーキを注文した。
注文を終えて、ふと、店内を見渡してみる。客の多くは、若い女性だった。皆、楽しげに談笑しながら、運ばれてきた甘味を、まずは写真に収めている。
「最初の頃はな〜」
水を運んできた睦が、こっそりと、耳打ちした。
「この制服目当てなんやろか、男のお客さんの方が、ずーっと多かってん。それが、このパンケーキが評判になってからは、すっかり、女の子のお客さんばっかりや。ありがたい話やわ〜」
なるほど。味は、下心に勝る、ということらしい。実に、いい話である。
しばらくして、睦が運んできたそれに、私は、すっかり心を奪われた。
ふっくらと三層に積み上がったケーキの生地。てっぺんには、大きな赤い果物が載り、白いフワッとしたクリームに、同じ赤い果物のソースが、とろりとかかっている。傍らの小さなカップには、琥珀色の、とろみのある液体。
翔子は、その液体を、豪快に、上から垂れ流した。シロップ、と呼ばれるらしいそれが、赤いソースと、白いクリームに絡み合っていく。何種類もの甘い香りが、いっぺんに鼻腔を通り抜け、頭の中が、ぼうっと、ぼやけていくような心地がした。
翔子は、ナイフで大雑把に生地を切り取ると、フォークに突き刺して、口を大きく開けた。
あまりに幸せそうな翔子につられて、私も、おもむろに一切れを口へ運ぶ。
——自然と、目を閉じていた。
舌の上で、ふわりと崩れ、溶けていく生地。追いかけてくる、何種類もの甘さ。私は、その一つひとつを記憶に刻もうと、口の中で、しばらく転がして遊んだ。
目を開けて、翔子を見る。翔子もまた、同じように目を閉じて、利き手でない方の手で、自分の頬を、ぎゅっと押さえていた。
「これか! これが、"ほっぺが落ちる"ということか!」
この国の言語で、ずっと不可解だと思っていた表現の一つ。その意味が、今、ようやくわかった。頬は、もちろん、落ちなかった。だが、落ちそうなほどに、美味い。言い得て妙、とは、このことだ。
あっという間に、私と翔子は、それを食べ尽くしてしまった。皿の上の、最後の一滴のソースまで。
「睦さんは、大学に入ってから、このアルバイトを始めたんですよね」
手の空いた睦が、近くの席を片付けながら、私たちの相手をしてくれる。
「うん、お小遣い稼ぎ。大阪から出てきたから、親の仕送りだけじゃ、遊べへんしねぇ〜」
「大阪?」
「ミルちゃんは、わからんか〜。大阪はな、ここ東京の次に大きい都市やねん。うちの地元やで」
「大阪……」
私は、その響きを、口の中で繰り返した。
「行ってみたいなあ。ねえムッちゃん、大阪の人って、いっつもボケたり、突っ込んだりすんの?」
「サルちゃん、それ偏見やでえ。うち見てたら、そうは思わんやろ〜」
ふんわりと、睦が笑う。確かに、この、終始のんびりとした睦を見ていると、そんな他人とのやりとりが活発な文化があるとは、にわかには信じがたい。
だが、二人の会話を聞いていると、こんな小さな一つの国の中にも、東京と大阪とで、ずいぶんと文化に差があるらしい。同じ言語のはずなのに、睦の言葉には、独特の抑揚と、温かさがある。
「大阪はな〜」
睦が、片付ける手を、ふと止めた。その目が、どこか遠く——ここではない、別の街並みを、見ているようだった。
「うちの育った商店街な、いっつも、どっかの鉄板が、ジュージュー鳴っててな。ソースの匂いが、街じゅうに、染みついとんねん」
お好み焼き。たこ焼き。串カツ。睦が、指折り数えて挙げていく料理の名は、どれも、私の知らないものばかりだった。だが、その響きと、語る睦の、とろけそうな笑顔だけで、それがどれほど美味いものなのか、なんとなく、伝わってくる。
「近所のおっちゃんも、おばちゃんも、みーんな、お節介でな〜。学校帰りに通るだけで、『睦ちゃん、なんか食べてき〜』言うて、勝手に皿が出てくんねん。あれは、財布いらずやで〜」
「いいなあ!」
翔子が、ずいと身を乗り出す。
「東京も、ええとこやけどな。みんな、ちょっと、よそよそしいやろ。……たまに、あのお節介が、無性に、恋しなるわ〜」
ふんわりとした、いつもの口調。その最後の一言だけが、ほんの少しだけ、湿っていた。
——ああ。彼女は、故郷が、好きなのだ。
いつも、のんびりと笑ってばかりの睦の、知らなかった横顔を、私はまた一つ、見つけた気がした。視察というのは、存外、悪くないものである。
……そういえば。つづらが仲間入りして以降、新しい候補生の情報は、何一つ、上がってきていない。候補生はこの国から選ばれる、ということだから、まだ見ぬ子は、別の地域にいるのかもしれない。この国だけでも、一億以上の人間がいるのだ。見つからないのも、無理はないのだろう。
「ミルちゃん、聞いてた?」
不意に、睦の声が、耳に入った。
「すみません、ちょっと、考え事を……で、なんでしたっけ?」
「せやから、夏休みには大阪の方へ帰るから、しばらく訓練は出られへん、って話」
「ああ、はい。……なんだか、大阪、私も行ってみたいです」
「じゃあ、みんなで行こうよ! 大阪! 夏休みに!」
翔子が、目を輝かせて、身を乗り出した。
まず、私が、ことの全容を理解しなくては。
センターで学んだこの国の知識と、今しがた二人の会話で得た言葉を頼りに、私は、テーブルの下で、瞬時にモバイル端末を操作し、調査を開始した。
この国では、進学を機に、都市部へ出てくる学生がいること。「夏休み」とは、その学生たちの、長期の休暇であること。そもそも「夏」とは、この国で気温が著しく上昇する、非常に暑い季節であること。そして「東京」というこの街には、この国のさまざまな地方から人が集まり、休暇のたびに、めいめい故郷へ帰る——「帰省」という習わしがあること。
……すべて、理解した。
「じゃあ、私たちも、バイトを頑張らないと、ですね」
「うん!」
翔子は、嬉しそうな笑顔を作ると、睦に向かって、高らかに言い放った。
「パンケーキ、おかわり!」
……まだ、食べるのか。
睦は「は〜い」と仕事に戻り、しばらくして、二皿目を運んできた。
「はい、お待たせしました〜」
「イエーイ」
翔子が、両手を挙げて喜ぶ。財布の中身が、また一段と、風通しよくなる音が聞こえた気がした。私の、ではなく、翔子の、だが。
「睦さんのご家族は、どんな方々なんですか」
「普通普通。うち、今はちょっと派手に見えるかもしれへんけど、高校生までは、めっちゃ地味やったんよ〜」
「……想像できませんね」
今、目の前でフリルのエプロンを揺らしている彼女と、「地味」という言葉が、どうしても結びつかない。
「せやから、色々と、変わりたくてねぇ〜。勉強も大事やけど、お洒落したり、美味しいもん探したり。そういうの、ぜんぶ、やってみたかったんよ」
「そういえば、クッキーのお店で、出会いましたものね」
「そうそう。あそこからやわ。そっから、ほんま色々変わって、毎日、楽しいわ〜」
「楽しい? 訓練が、ですか?」
「訓練って、感じせんよね?」
「もぐ、うん、もぐ、部活って、感、んぐ、じ〜」
「翔子さん、食べながら喋らないでください」
私は、また端末で、「部活」という言葉を調べた。
——そうか。私が研究してきたアニメのヒロインたちの中にも、この地球のさまざまな運動競技や、文化芸術の習い事に打ち込む者が、大勢いた。学生たちは、あくまで自主的に、自発的にそれへ参加し、”青春”というものを謳歌している。
ヒロイン候補生として、強制ではなく、自らの意思で訓練に参加してくれていること。それは、トレーナーとして、素直に、嬉しい。
——嬉しい、のだが。
本当の危機が、もし、この星に訪れたとき。この子たちは、楽しいだけのこの日々を、すべて投げ打ってでも、この地球を護ることが、できるのだろうか。
パンケーキの甘さの裏側で、ふと、そんな不安が、胸をよぎった。
パンケーキは、うっとりするほど、美味しかった。
翔子も、睦も、自分の人生を、ただ目いっぱい楽しく過ごしたい——その想いだけは、痛いほど、伝わってくる。
私は、まだ危機の見えないこの地球が、好きになりかけている。
トレーナーとして、彼女たちを、立派なヒロインに育て上げなければならない。それが、私の使命だ。
でも。
翔子も、梵も、睦も、珠も、つづらも、私にとっては、もう、教え子というより……
その先の言葉は、なんだか照れくさくて、私は、空になった皿に、視線を落とした。
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拠点に戻り、私は、ベッドに、ごろりと横になっていた。
テーブルの上では、キュートブリーズのフィギュアが、いつものように、微笑んでいる。その周りには、彼女の小さな仲間たちのフィギュアも、ちょこんと並んでいた。硬貨を入れてダイヤルを回すと、カプセルになって出てくる——あれで、少しずつ、集めたものだ。
ふと、通信デバイスが鳴った。
「ニャンデーレ君。勤務時間外に、すまないな」
ダルマイヤック指導官だ。今まで、こちらの時間など、気にしたことも、ないくせに。
「ヒロイン候補生の捜索エリアを、広げることとなった。近々、大阪と呼ばれるエリアにも拠点を設け、君に行動してもらうことになる」
「大阪、ですか?」
なんと、タイムリーなことだろう。つい数時間前に、聞いたばかりの地名だ。
「乾睦くんは、確か、大阪の出身だったな」
「はい。今日ちょうど、夏の休暇に行きたい、なんて話をしていたところです」
「そうか。なら、ちょうどいいじゃないか。……その前に、だ」
言うが早いか、モバイル端末に、一つのデータが届いた。訓練用のプログラムだ。
「これは……?」
「今の六人用に組ませた、特別訓練プログラムだ」
私は、その内容にざっと目を通し、思わず、息を呑んだ。
「これは……かなりの上級プログラムじゃないですか。先輩トレーナーだって、手こずるレベルですよ」
「そうだ。それから訓練中に君の拠点にある転移装置でこちらのスタッフを送り込む。新設する大阪拠点の準備のためだ。だから出入り口のセキュリティを解除しておいてくれたまえ」
「え、はい。しかし私が在宅している時で構いませんが」
「一応、在宅時は君の時間だろう。彼らも気を遣ってくれてるのだよ」
「そうですか……承知しました」
「まあ、頑張りたまえ。成績次第では——今の五人を、大阪拠点に、招待してやろう」
「!」
「では」
またしても、一方的に、通信は切れた。
……このプログラムに、あの子たちが、挑むのか。
私は、端末を握ったまま、しばらく、天井を見つめた。それから、おもむろに身を起こし、五人の適性をまとめたデータを、ゆっくりと、スクロールしていく。
翔子の身体能力。梵の頭脳。睦の包容力。珠の秘めた出力。つづらの純粋な強さ。
——上等だ。
無茶振りばかりの指導官だが、面目を潰されてばかりも、いられない。それに——あの翔子が、大阪行きを、あんなに楽しみにしているのだ。連れて行ってやれるなら、なおさらだ。
私の、トレーナーとしての意地を、見せてやる。
そう、心に誓いながら、私はもう一度、キュートブリーズの、変わらない微笑みに、目をやった。




