36. とびら
球体は百三十年前に湖に沈められた。
堰き止め湖だった湖はダムで補強され、
ダムの天端は、左岸から右岸を繋ぐ長い橋としても使われる。
それはヨルクにとって、ラーウスで初めて見る巨大な建造物だった。
ラーウスの人々は、繁殖力の強い植物と共存しながら生きていた。
その生活はシンプルで、不便でも困らない程度に抑えられている。
ラーウスでは集落に別れて自然を汚染しないようにしている。
エルナトは集落の中心で、ダムに植物が侵入するのを防いでる。
ナタリと峠の山小屋が残れたのは、植物がはびこれない寒い気候のおかげだ。
サライは荒廃したが、使わない空港は捨て置き、必要な時だけ利用している。
そうやって、ここの住民は、自然の理にかなった生き方をしつつ、建物や公共施設を管理していた。
さて、ヨルクはダムへやって来た。
ダムの左岸近く、上流側に、セルク・ヨナの扉はある。
ところがそこは草ボウボウだった。
ユーリスたちがサライへ向かう前に草刈りしたのに、すぐに伸びてしまっていた。
「また草が生えてちゃったね」
「ヨルク、ちょっと待ってて」
「よしっ」
皆はナイフを出し、シャシャッと手際よく草を刈っていく。
ヨルクはそれを見ながら、昨日ユーリスが、ダンを連れて行く理由が分かった。
草刈りのためだ。
しばらくすると何かが見えてきた。
「え? これ?」
それは、手すり壁に付いたレリーフ、浮き彫りにしか見えない。
扉と言うより記念碑っぽい。
ヨルクは、扉だから建物があると思っていた。
扉の周りは、こんもりと草に覆われていたので、壁だけと思わなかったのだ。
もちろんヨルクは、式典が行われ、ファンファーレの合図と共に扉を開ける、なんて期待していない。
「百年も語り継がれていたにしては、あまりにもお粗末」と思ってしまったのだ。
ユーリスは、ニコッとして扉を指差す。
「ヨルク、ここに手を当てて」
そこにはセルク・ヨナの装飾文字があった。
そこだけがテカテカしている。
「僕も触ったよ」
とニケが言った。
他の皆も、全員、触ったと言う。
この百年の間、皆が触ったのでテカテカしている。
ヨルクは触るのを躊躇した。
扉が古臭い彫り物にしか見えなかったからだ。
するとヌンが聞く。
「ご主人様、触らないのですか?」
ヨルクがヌンを見ると、ヌンの花粉袋はひどく垂れていた。
「ヌン、その花粉袋はどうした?」
「はい?」
ここでヨルクの、事を後回しにする癖が発動してしまった。
そもそもヨルクがエルナトへ向かったのは、ヌンのお嫁さん探しだった。
それは、ヨルクの言い訳でしかない。
ユーリスたちが迎えに来てくれたのに、臍を曲げ「エルナトへは行かない」と言ってしまったからだ。
それからヌンにつなぎ役をやらせ、お嫁さん探しもティアに任せてしまう。
ヌンが劣化しているのに気付いても、自分のことで精一杯だった。
ヌンのお嫁さん探しは、後回しにしたということだ。
ヌンは人間ではない。
植物だ。
植物なのに、自分を慕ってくれている。
ヌンは、ずっと自分を守ってくれていたのに、何もしてやれていない。
そしてふと、ヌンのお嫁さんが見つかったら、ヌンはどうなるんだろうと思った。
「ご主人様、私の花粉袋は、朝露で濡れて重くなったんですよ」
とヌンは言った。
「さ、ご主人様」
ヨルクは、ヌンに言われて扉に触る。
すると、ガコッと音がし、埃が舞い上がり、扉が開いた。
皆が「おーっ」と声を上げる。
ところが、扉の中は真っ暗だった。
入り口から入る光が床に反射し、それが細く伸びているだけだ。
ヨルクはどうして良いのか分からない。
ユーリスが、
「この中は」
と、言いかけた時、ダンが叫んだ。
「ニケ!」
なんと、ニケが扉の中に入ってしまったのだ。
「中は広いよ」
と闇の中からニケの声がした。
「ニケ、戻れ!」
ダンがニケを追ってピョンと扉の中に入る。
「ユーリス」
とワルトが呼ぶと、ユーリスは振り返る。
「これって、あれ?」
「うん、球体だ」
そんな会話を交わした二人はヨルクを見る。
「ヨルク、中に入ろう」
ヨルクは「えええ〜!」と心の中で叫んだ。
ヨルクはサライを出た後、暗い洞穴に入ったことがある。
初めてだったけれど、皆と一緒だったので怖くなかった。
むしろ涼しくて「ありがたい」と思った。
それでヨルクは、
「みんなと一緒なら…」と言ってしまった。
すると皆の表情は、ぱあっと明るくなる。
ヨルクと違って、怖いもの見たさで中に入りたかったのだ。
ユーリスは、仕方ないという顔をする。
そうしてゾロゾロと、皆は扉の中に入って行く。
ヨルクとユーリスは、最後に入った。
扉の中は広かった。
「どれくらいの広さなんだろう」
「何もないね」
「どこかに繋がってるのかな」
「長いトンネルってこと?」
「バクテリア・ライトがつかないよ」
と、皆は口々に言う。
突然、バタンと扉の閉まる音がして真っ暗になった。
ヨルクは左右に頭を振るが、何も見えない。
その時、ポウッと、淡く灯るものが現れた。
大きなシャボン玉の様なもので、ヨルクを取り巻くように浮かんでいる。
それらは美しくて、時には虹色に光り、ゆっくりと形を変えながら、ゆらゆらと動いている。
ヨルクがよく見ると、その物体の中に、ユーリスたちが一人ずつ入っていた。
彼らは逆さまになっても動かず、停止したままの状態で入っている。
ヌンもその中で止まったままだ。
床がそれらを反射して、ヨルクは宙を浮いているように感じる。
「ヨルク」
と声がした。
ヨルクが声のする方に振り向くと、ホログラムが映し出されていた。
「お父さん? お母さん?」
それは、年を取ったヨルクの両親だった。




