04 君の名前を教えて
「おまたせしました」
私が彼のもとに小走りにいくと、優しく微笑まれた。
パーカーを返そうとすると「それじゃ目立つから」とメイド服の上に着るように言われた。私はセルリアンのパーカーに腕を通す。ふっと、自分の家じゃない洗濯物の匂いがした。
「さっきの彼氏ですか?」
「友だちみたいな?……先輩です」
寧々ちゃんのは誤解を誘う表現だったけど、私は今、能動的に嘘をついた。すると彼は、天気を尋ねるくらいの感じで、軽く聞いてきた。
「彼氏いるんですか?」
「いないです」
いないです、ずっと。でもずっといないというのは隠しておこう。引かれても嫌だから。この人は彼氏や彼女がいるのが当たり前の環境で生きている気がする。
ここは私からも、彼女いるんですか?と確認するタイミングだと思う。けれど案外さらっと「います」と言われそうで、怖くて聞けなかった。あと別に付き合いたいとか思ってないし。
心の中でまで強がらなくてもいいのに、そう負け惜しみを唱えて、私は話題を変える。
「名前は……マサくん?でいいんでしょうか」
「ショーマって呼んでください」
名前、全然違うけど。怪し過ぎる。訝しく思いつつ、その名を呼んでみる。
「ショーマくん」
名前を呼ぶと目の前の男の子は花が咲くみたいに笑った。その顔を見て、ほわあと私がのぼせ上がっているとショーマくんが一歩近づいてきた。
「ええと漢字が」
と言って私の手のひらを拾う。彼の手の上に私の手が乗る。生命線の始まりあたりに置いた指が動き出す。指で漢字を書いているようだった。手のひらを滑る人差し指がくすぐったい。
「わかりました?」
「わかりませんでした」
ショーマくんはもう1回、指で名前を書いてくる。さっきより速度を落としてゆっくりゆっくり指が文字をなぞる。手のひらと指との接点がゾワゾワして心臓が早打ちをする。
『遊ばれんなよ〜』
透の冗談が急にぽこんと頭に浮かんだ。いや、まさか、高校生だし! そんな感じに見えないし!
「わかりました?」
「全然わかりませんでした……」
「ははは!インストで送りますね」
ショーマくんはスマホで何か打っている。
自分のスマホを見るとメッセージが来ていた。アプリを開く。ショーマくんのアカウント名は「.(ピリオド)」や「_」ばかりで名前ぽくはないようだった。これがまたちょっと怪しさを誘った。
ちなみに私のはエンちゃんというあだ名をもじったアカウント名だ。
メッセージを開くと
―― 本堂将真
とだけ書いてあった。
「ボクの名前です」
「ああ、なるほど」
「将棋の将、真人間の真で、将真です」
「真人間て」
「いつもそうやって説明するんですけど、他に何かいいのありますか」
「真夜中とか」
「それがあった!」
そう言って随分おかしそうにコロコロと笑うので、高校生、笑上戸すぎん!?と思って見惚れてしまう。人が笑っているのは、見ているこっちもすごく嬉しい気分になってしまう。
「あれ、いつもそうやって説明するなら」
と言いかけると、将真くんが、
「あー……手がちっさくてかわいいなと思ってつい」
と言ってまた何事も無かったように鮮やかに手を繋いできた。
今どきの高校生はこんななのか? 手が小さくてかわいいと指文字してくるんか? この人がたまたま手練れなのか?
私が異星人でも見るように凝視していると、将真くんもこちらを見る。
「名前、エンちゃんっていうんですか?アカウント名の」
「あだ名です。本名は……」
言おうか迷った。検索したら、研究室の活動やら論文やら何やらでふつうにネットに名前が出てくるからだ。そこから入学年度も丸わかりだ。
固まった私に将真くんが別の方向で気遣いをする。
「初対面だし、心配だったら言わなくていいですよ?」
でもこの人に名前を呼ばれてみたい気がした。私は下の名前だけ伝える。
「まどかです」
「まどかちゃん」
まどかさん、と言われると思ったから、面食らった。そうか、彼は私を1コ上だと思っている。1歳差くらいなら、ちゃん呼びもアリなのか。
5歳も年が上の女をちゃん付けしていたと知ったら、絶句して、インストをブロックされるだろうか。それだけならまだいい。年齢詐欺女ってネットに書かれて、吊し上げられたら。
長年ネット上のトラブルをあれこれ見てきた私は、ワーストケースをすぐにいくつも思い浮かべることができた。
「まどかちゃんの漢字は」
将真くんはまた漢字の話をし始める。
漢字すきだな?と思ったら少し笑えてきた。こういうところは高校生ぽかった。高校生はまだまだ漢字が身近なのだ。
大学に入ってから漢字を直筆で書くのは自分の名前と住所くらいだった。将真くんは大人ぽいところと幼いところが入り組んでいて面白い。
「円周率の円で、まどかです」
「円周率のたとえ、笑える」
「えっ、この漢字なんて説明します?」
「円安の円とか?」
「ああ、いますごく安いですもんね日本円」
私が円安による物価高に思いを馳せながら、深く頷いていると、
「円安ってイメージ悪かったですね。円高って言えば良かったな」
と将真くんが言った。
「なんかそういう絵本ありましたよね」
「「はれときどきぶた?」」
私たちの声が揃った。二人で笑い合う。
良かった、将真くんの時代にもまだあって。ありがとうロングセラーありがとう名作。
「ああ、じゃあ」
将真くんがスマホで何かメッセージを送ってきた。
―― 202x年5月 まどかちゃんといっしょにまた春祭にきた。
「はれぶた日記です」
君はいつもこんなメッセージを送っているのか? ロマンス詐欺くらいでしかこういうの見たことない。心の中でブレーキをかけながら、私はその文字を一心に見つめていた。
「まどかちゃんも何か送ってくれますか、はれぶたで」
私はちょっと考えて、少し逃げた。
―― 202x年5月 登山部焼きそばのレシピが明らかになる。
「ああ、これはボクも知りたいです」
将真くんが笑って言う。
「マルには絶対に登山部に入ってもらわないと」
それから、将真くんが見たいと言った謎の仮装ステージをいっしょに見て、戻り時間になったので、私たちは露店エリアの東側に向かった。
じゃがバター屋の近くまで来たので借りていたパーカーを返そうとすると、そのまま持っていてもいいと言われるが、流石にそれは、とお返しした。立つ鳥跡を濁さず、だ。
焼きそばとドリンクのお代も返そうとして財布を取りに行こうとすると、頑なに固辞された。
きっちりしたがる私に、将真くんから、
「ボクのこと切らないでくださいね」
と釘を刺される。
将真くんもお祭りの雰囲気に酔っている気がする。今はこんなこと言ってるけど日常に戻ったら、私のことなんて忘れちゃうんだろうな、という気がした。
「来月、高校の文化祭あるんですけど」
「この時期に? 珍しいですね」
「いつもは秋なんですけど。校舎の改修工事で今年は1学期で」
1学期というワードすら、すでにノスタルジックでノックダウンされる。年齢差を実感する単語トップ20に入りそう。
「文化祭、招待していいですか? 招待した人だけ入れる日があって。そこだとそんなに混まないので」
「ありがとう。予定なかったら行きますね」
予定は研究室だけなんだけど、たぶん私は行かないだろう。行けたら行く、みたいな返事に将真くんは不満そうだった。
「今日はありがとう。楽しかったです」
「次も絶対楽しいですよ?」
私は曖昧に笑った。
そのときふわと風が吹いて、私の髪が鼻と唇にかかった。将真くんが私の顔を見ながら、手を伸ばす。避けようとは思わなかった。私は近づいてくる長い指を見ていた。
だがそこへ、急に騒音がカットインしてきた。
「はいはいはいはい、うちの売り子はお触り禁止ですよ〜」
透だった。私と将真くんの間にじゃがバターのプラカードを差し込んでくる。
将真くんに失礼なことを言う透に、私は思いっきりガン飛ばしするが、透は知らん顔でプラカードを小刻みに振って割り込んできて、私たちの距離を空けさせる。
将真くんは律儀に透に会釈してから、私をまっすぐ見ると、
「連絡します」
と微笑んで、スマホを軽く持ち上げた。




