第四章 視線の行方
晃市はその日、朝から閉店までの通し勤務だった。
昼のピークが過ぎ、売り場が静まり返る頃には、レジに立つのは自分と主婦の野島の二人だけになる。
野島は同時期に入社したパートで、キャリアは長い。
晃市より二歳若い既婚者で、大学生になる息子が二人いる。
長野で働く夫に嫁いでこの土地へ来た。
出身は関西だが、職場では標準語で話す。
ショートカットに、やや吊り上がった目、細めの顎。
輪郭を際立たせるメイクが、その鋭さを隠そうとしない。
顔立ちは整っている。
ただ、柔らかさはない。
どこか人を寄せつけないような、張りつめた印象がある。
そういう顔を好む男には、美人に映るのかもしれない。
華奢にも見える細身の体に、際立つほど豊かな胸。
体に沿う黒のポロシャツは、その輪郭を隠さない。
性格は率直で、感情の起伏を隠さない。
「それ、なんで後回しにするの?」
「今やれば終わる話でしょ」
「……ほんと、そういうの無理なんだけど」
言葉は正論でも、語尾は柔らかくない。
機嫌が良ければ冗談を言う。
だが苛立てば、それがそのまま声に乗る。
* * *
とくに晃市に対しては、その起伏が分かりやすい。
距離を測るように近づき、探るような視線を向ける。
ぶっきらぼうな口調の奥に、隠しきれない関心が滲んでいた。
晃市は、それが自分に向けられていることに気づいている。
野島の視線を思い出すだけで、胸の奥がひやりとする。
好意かもしれない、と一瞬よぎる。
だが、それ以上は考えない。
晃市はいつも、一定の距離を保っていた。
「早田くんさ」
レジ締めの最中、不意に声がかかる。
「はい?」
「最近、なんか変わったよね」
探る目だった。
晃市は一瞬だけ言葉を失う。
変わった理由は、自分でもはっきりしている。
「そうですか?」
曖昧に返す。
野島はじっと見つめ、鼻で小さく息を吐いた。
「ま、いいけど」
その声音には、わずかな棘があった。
あと少しで野島の退勤時間――
* * *
自動ドアが開いた。
伊沢美紀が店に入ってくる。
肩にバッグを掛けて、まだエプロンもバンダナもつけていない、出勤前のままの姿だった。
店内を見渡し、いつもの明るい表情を浮かべる。
「おはようございます」
その声を聞いた瞬間、晃市の表情がふっと緩んだ。
売り場の空気まで、わずかに柔らぐ。
野島は、その変化を見逃さなかった。
細くなった視線が、二人のあいだを静かに往復する。
距離は自然だ。
だが二人のあいだには――
誰にも知られていない記憶があった。
売り場を横切りながら、美紀が晃市の前で足を止める。
「今日は通しですか?」
「朝からラストまでです」
「長いですね」
「まあ、いつも通りです」
視線が絡む。
ほんの一瞬、静かな間。
野島はレジの売上画面を確認しながら、ぽつりと呟いた。
「本当、分かりやすいよね、早田くん」
晃市が振り向くと、野島は何事もなかったようにレジを操作していた。
「じゃ、私はここまで」
エプロンとバンダナを外し、最後に一言。
「お邪魔虫は帰りますね」
軽い口調だが、目は笑っていない。
美紀は笑顔で頭を下げる。
「お疲れさまでした」
野島は振り返らず、バックヤードへ消えた。
* * *
扉が閉まる。
晃市は小さく息を吐いた。
無意識に肩の力が抜けている。
「……お疲れさまでした」
美紀が、あくまで何気ない調子で言う。
「長い一日でしたね」
それだけだった。
誰の名前も出さない。
晃市は苦笑し、レジ台に手をついた。
「ありがとうございます。
なんというか……やっと終わった、って感じです」
「ですよね」
美紀は深くうなずかない。
同意だけを残す、ちょうどいい距離感。
「通し勤務も、かなり消耗しますしね」
その言い方に、晃市の胸が少し軽くなる。
「今日、伊沢さんが出勤で、本当に助かりました」
ぽろりとこぼれた本音だった。
美紀は一瞬だけ目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「それなら、よかったです」
短い沈黙。
張りつめていた空気が、静かにほどけていく。
あの夜のことは、二人とも忘れていない。
沈黙を打ち切るように、美紀が口を開いた。
「最近、少し運動しようかなって思ってるんです」
さりげない口調で続ける。
「夜、ちょっと歩こうと思って。でも一人だと、続かなくて」
一瞬だけ、晃市を見る。
「良かったら、河原のウォーキングコース、一緒に歩きませんか?」
すぐに、軽く笑う。
「ダイエットも兼ねて。……ついでに、ボディーガードがいた方が安心かなって」
少しだけ間を置く。
「本当に、歩くだけですから」
冗談めかした調子だった。
晃市の胸が大きく打つ。
それでも、顔には出さない。
ほんの一瞬だけ、言葉を止めた。
「もちろん」
穏やかに笑う。
「伊沢さんの護衛なら、喜んでお引き受けします」
声は落ち着いているが、どこか柔らかい。
「ありがとうございます」
美紀は小さく頷いた。
冗談の形を借りた誘い。
それを受け止める、抑えた喜び。
野島のいない売り場で、
二人の距離は、また一歩だけ縮んだ。




