第五章 夜の遊歩道
――長野の住宅街を縫うように流れる、穏やかな川べり。
夜になると人影はほとんどなく、川の水音と虫の声だけが静かに重なっている。
昼の熱をわずかに残した舗装の上を、湿り気を含んだ風がやわらかく撫でていく。
対岸の街灯が水面に細く揺れ、川はゆっくりと呼吸しているようだった。
――美紀は黒のジャージ姿で姿見の前に立つ
伸縮性のある生地は身体に沿い、胸の丸みや腰の厚み、豊かな尻の輪郭を隠しきれない。
ヒップラインにはっきりと下着の線が浮き、光の加減で下着がかすかに透ける。
「……ちょっと、ぴったりすぎるかも」
着替えることも一瞬考えた。
だが、やめる。
あの夜、抱きしめられたとき、
迷いは、確かにあった。
それでも――
その腕を、拒まなかった。
ならば、そのままでいい。
迷いは、まだ消えていない。
それでも、着替えようとは思わなかった。
娘は眠り、夫には「ダイエットのため」とだけ告げてある。
玄関を出ると、夜気が頬を撫でた。
胸の奥に、小さな緊張がある。
――橋は、このあたりでは比較的大きい部類に入る。
車道は片側二車線あり、歩道も広い。
夜でも完全に無人になることはなく、ときおり車が静かに通り過ぎていく。
橋の中央には街灯が等間隔に立ち、白い光が川面まで届いている。
光の下に立てば、互いの表情もはっきりと分かる。
――歩道に人の気配はない。
車のヘッドライトが一瞬だけ影を伸ばし、すぐに闇へと溶けていく。
広さのわりに、どこか孤立した空間だった。
その橋のたもとが、二人の待ち合わせ場所だった。
* * *
遠くから晃市の姿が見える。
黒のTシャツにグレーのスウェットパンツ。
飾り気はないが、広い肩と厚い胸板が街灯の下で静かに浮かんでいる。
その姿を目にした瞬間、美紀の胸にごく小さなときめきが灯った。
まるで、ずっと前からそこにいてくれたような安心感。
気づけば、呼吸がわずかに変わっていた。
あの夜、抱きしめた腕。
あの夜、触れた唇。
もう、知らない相手ではない。
晃市は美紀に気づくと、やわらかく会釈をした。
橋のたもとの街灯の下で、美紀がゆっくりと歩み寄る。
晃市の視線は、自然とその姿を追っていた。
ぴったりとした布地が、職場で見るときよりも体のラインを際立たせている。
晃市は、わずかに視線を逸らした。
美紀も歩みをゆるめ、微笑んで頷き返す。
数歩の距離を残して、立ち止まる。
視線が合う。
ほんの一瞬、あの夜の続きを思い出すような沈黙。
橋の上を通り過ぎた車の光が、足元をかすめる。
美紀は小さく息を吸った。
「今日は……ウォーキング付き合ってくれて、ありがとう」
少し照れたように、美紀は微笑んだ。
「いやあ、こちらこそ。ウォーキングなんて、本当に久しぶりですから」
晃市も穏やかに笑った。
* * *
ふたりは橋の脇にある緩やかな坂を下りていく。
舗装された道は、そのまま広い河原へ続いていた。
河原に降りると、川沿いに長い遊歩道が伸びている。
夜の河原には、人の気配はない。
ふたりは並んで歩き出す。
道幅が狭くなると、晃市が自然と後ろに回った。
その瞬間、美紀の尻が晃市の視界いっぱいに広がった。
ジャージ越しに下着のラインがはっきりと浮かぶ。
布越しでも分かる丸みが、ゆるやかに揺れる。
視線を落としすぎないよう意識する。
だが、完全には逸らせない。
あの夜、腕に抱いた身体だ。
鼓動がわずかに速くなる。
何気ない顔を装いながら、歩幅を合わせる。
美紀は、背後の気配を感じていた。
見られている。
確信に近い感覚。
そして、それを拒んではいない自分。
その意識を振り払うように、美紀は口を開いた。
「こうして歩くの、なんだか変な感じですね」
前を向いたまま、美紀が言う。
「変、ですか」
「ええ。普通の同僚、のはずなのに」
言い切らず、少しだけ笑う。
晃市も小さく笑った。
「戻れてる、つもりでしたけど」
「本当に?」
美紀が横目を向ける。
晃市は肩をすくめる。
「努力はしてます」
その答えに、美紀がくすっと笑う。
「じゃあ、今夜はちゃんと同僚として、ですね」
「同僚として?」
晃市が聞き返す。
「ええ。健康のためのウォーキング。一緒に取り組む、ってことで」
ほんの少し間を置く。
「……本当に、それだけです」
軽く笑ってみせる。
晃市は、わずかに目を細めた。
「もちろんです。護衛任務に徹します」
「ボディーガードつきの健康活動ですね」
美紀がそう言って笑う。
「……それは気が抜けませんね」
晃市も小さく笑った。
冗談の形だった。
けれど二人とも分かっている。
完全には、戻れていないことを。
それでも今夜は、
並んで歩く距離だけを守ると決めた。
* * *
やがて美紀が空を見上げる。
「……あれ、わかりますか? こと座のベガです」
美紀が空を指さす。
晃市は目を細めて夜空を探すが、正直に首を振った。
「すみません。星は、まったく詳しくなくて」
美紀は小さく笑う。
「じゃあ、あの三つ並んでいるのが、はくちょう座のデネブ。あっちの一番明るいのが、わし座のアルタイルです。夏の大三角」
言われるままに視線を動かす。
「……本当だ。ちゃんと三角ですね」
「でしょう?」
声が少しだけ楽しそうになる。
「星の名前を知ると、ただの光じゃなくなるんです。場所が分かると、急に近く感じるというか」
晃市はもう一度空を見上げる。
さっきまで同じに見えていた光が、それぞれ違うもののように思えてくる。
「伊沢さんに教えてもらわなかったら、一生気づきませんでした」
そう言うと、美紀は少し照れたように視線を落とした。
ふたりは並んで歩く。
会話は続かない。
けれど、気まずさはない。
夜空は相変わらず遠いままだが、
その下を歩く距離は穏やかだった。
川の音が静かに続く。
今度は晃市が耳を澄ます。
「……聞こえますか。チッチッチッと、硬貨を打ち合わせるみたいな音」
美紀が足を止める。
「……あ、本当だ」
「あれはカネタタキです」
「カネタタキ……」
「それと、少し低くガチャガチャ鳴っているのがクツワムシ。昼に鳴く虫ですが、長野では夜にも鳴くことがあります」
「ガチャガチャ……これですね」
「はい。夏の夜の声です」
美紀は微笑む。
「早田さんって、虫のこと詳しいんですね」
「子どものころから、こういうの好きだっただけです」
照れたように笑う。
また歩き出す。
距離は自然。
だが、互いの意識は静かに濃い。
* * *
やがてふたりの手と手が、そっと近づいていく。
触れそうで、触れない。
とうとう、かすかに指先が当たった――
「あ……」
美紀と晃市から思わず小さく声がもれ、二人は顔を見合わせた――
晃市がゆっくりと指を絡める。
美紀は拒まない。
握り返す。
川の水音が、やけに大きく聞こえた。
星は変わらず瞬いている。
余裕を装いながら、
二人の鼓動だけが、少しずつ速くなっていた。
川沿いの道は、やがて橋の影へと続いていく。
街灯の光が弱まり、足元の影が少し濃くなる。
握ったままの手が、互いの体温を確かめ合う。
美紀は歩幅を少しだけ緩めた。
晃市もそれに合わせる。
足音が止まる。
虫の声と、水の流れだけが残る。
視線が絡む。
余裕を装ったままの目。
けれど、隠しきれない熱がある。
「……今日は、あくまでウォーキングですから」
美紀が冗談めかして言う。
声は落ち着いている。
晃市は微笑んだ。
「もちろんです」
その距離は、すでに近かった。
* * *
握った手を、美紀がゆっくりと引き寄せる。
晃市は、その力に逆らわない。
距離が静かに縮まる。
どちらも何も言わない。
川の音だけが聞こえる。
視線が重なる。
冗談の続きを言おうとして、美紀はやめた。
晃市も動かない。
ただ見つめている。
その沈黙が、妙に心地よかった。
先に踏み出したのは、美紀だった。
晃市の胸元へそっと身を寄せる。
晃市の呼吸がわずかに乱れる。
もう、冗談も余裕もいらなかった。
美紀はそっと顔を上げる。
指先で彼の頬に触れ、わずかに引き寄せる。
そして――
自分から、唇を重ねた。
触れるだけではない。
確かめるように、ゆっくりと。
はじめは静かに。
やがて、前よりも深く、長く。
呼吸が混じり、指先に力がこもる。
言葉はない。
ただ、もう分かっている。
一度きりの約束は、もうどこにも残っていない。
やがて、唇が離れた。
美紀はゆっくりと目を開けた。
「……ボディーガード、失格ですね」
小さく笑う。
晃市も息を整えながら笑う。
「護衛対象に手を出しました」
冗談の形は崩さない。
だが、握った手は離れない。
川の流れは変わらず、夜は静かだ。
それでも、二人の間に流れるものは、
もう以前とは違っていた。




