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第二章 越えない約束

「伊沢さん」


閉店後の売り場は、昼間とは別の顔をしていた。

蛍光灯の白さがやけに冷たく、床に落ちる影が濃い。


帰り支度をしていた美紀が振り返る。


「はい?」

いつもと同じ声。

いつもと同じ距離。


それが、今夜は遠く感じた。


晃市は一度、目を閉じた。

昨夜の訃報が胸をよぎる。


逃げれば、このまま終われる。

だが、それでは一生後悔する。


「少しだけ、時間をもらえますか」


――美紀はわずかに戸惑いながらも頷いた。


売り場の中央。

二人きり。


晃市は深く息を吸う。


「何も望んでいません。家庭を壊すつもりもない。返事もいらない」


美紀の目が、静かに揺れる。


「ただ……好きでした。ずっと」


空気が止まる。


「四年前、あなたがここに来た日から」


――美紀は目を伏せる。


驚きはあった。

だが、不意打ちではない。

晃市の想いには前から気づいていた。

気づかないふりをしていただけだ。


晃市は誰にでも分け隔てなく接し、穏やかで誠実な人物だ。

美紀はそんな人柄に好感を持ち、信頼していた。


だが、晃市を異性として意識したことはなかった。


「言わないまま終わるのが、怖かった」

晃市の声は震えている。


「二十年、女の人に触れていません」

晃市は目を伏せ、それでも逃げずに続けた。


「欲しかったわけじゃないんです。

……誰にも、そう思えなかった」


ゆっくり顔を上げる。


「でも……あなたは違った」


晃市は、美紀を見た。


「欲しいとか奪いたいとかじゃない。……違うんです」


その言葉に、美紀の呼吸がわずかに乱れる。


「ただ、自分に嘘をつきたくなかった」


沈黙が続く。


* * *


やがて美紀が、息を吐く。


「……ずるいです」

怒りではない。

困ったようで、それでもどこか受け止めている響きだった。


その瞬間――


晃市は、衝動に突き動かされるように膝をついた。

床に、両手をつく。


美紀が息を呑む。

「早田さん……?」


「すみません」

声が、かすれる。


「これが最後です」

額が床に触れる。


「抱きしめさせてください」


売り場の蛍光灯が、白く照らしている。

五十三歳の巨躯の男が、売り場の床に額をつけている。


こんなことを頼む人じゃない。

線を守り、踏み込まない人だと分かっていた。

だからこそ、その言葉が胸の奥を強く揺らす。


断らなければいけないのに。

拒めるはずなのに。


美紀は動けない。

拒めばいい。


それでも、その場を離れられなかった。


この四年間、彼は一度も越えてこなかった。


線を守り続けてきた男が、いま自分の前で頭を床につけて頼んでいる。

その姿に、胸の奥が揺れた。


許せば、きっと戻れない。


美紀は唇を噛み、揺れる視線のまま口を開いた。


「……ずるいですよ」

かすれていたのは、美紀の声だった。


* * *


わずかな沈黙のあと、


「……一度だけです」


声はかすかに掠れていたが、

言葉はまっすぐだった。


視線も逸らさない。

条件を出しているのは、自分だと分かっている。


――晃市はゆっくり立ち上がる。


震える腕を、確かめるように伸ばす。

触れる。


腕の中に、確かな重みがある。


美紀の胸が、晃市の厚い胸板に当たる。

柔らかい弾力が、制服越しに伝わる。


背中に回した腕の下で、温かい体温が広がる。

以前より肉付きの増した身体を抱き寄せた瞬間、その丸みがはっきりと腕に伝わった。


腹部のやわらかさが晃市にそっと押し当てられる。

女性特有の、あたたかな重み。

石鹸の残り香と、ほのかな体温が、静かに混ざり合った。


晃市の鼓動が一気に速くなる。


……温かい。

……こんなにも、安心するのか。


二十年以上触れていなかった女性の身体は、

想像よりも重く、温かく、確かに女だった。


晃市の鼓動が激しく打つ。


美紀の身体は最初こわばっていた。

だがやがて、ほんの少しだけ力が抜ける。


その瞬間、胸が締めつけられる。


「……ありがとうございます」

晃市の声は震えていた。


美紀は晃市の目をまっすぐに見た。


「これで、終わりですよ」

声は穏やかだった。

そこに迷いはない。


晃市は小さく頷く。

言葉は、出なかった。


だが、喉がもう一度だけ動く。


「……キス、してもいいですか」


沈黙が落ちる。


長い、長い時間。


晃市は何も言わず、ただ待っている。

その視線を、美紀は正面から受け止めた。


断ろうと思えば、断れる。

ここで線を引くこともできる。


それでも――

胸の奥で揺れるものを、無視できなかった。


美紀はゆっくりと息を吸う。


抱きしめられたときも、自分で選んだ。

けれど、これはもう一段、先だ。


一線を越えることを、はっきりと自覚している。


目を伏せる。


「……一度だけ」

声は静かだった。

小さくもない。震えてもいない。


その言葉の重みを、いちばん理解しているのは、自分だった。


唇が触れる。


深くはない。

だが、確かに長い。


蛍光灯の白い光の下で、二人の影が重なる。


唇が離れた。


* * *


美紀はそっと晃市の胸を押す。


「これ以上は、だめです」

その声に、迷いはなかった。


晃市は頷いた。


「分かっています」

胸の奥が、明るく熱を帯びていた。


「……ありがとうございます」

晃市は、心から言った。


「ずっと言えなかったこと、言えました」


腕の中にあった温もりが、まだはっきりと残っている。

柔らかな体温。背中に回した指先の感触。

現実だったという確かな手応え。


美紀は一瞬だけ目を伏せ、それから小さく笑った。


「もう、忘れてください」

声は明るい。


「今日のことは、なかったことに」


「……はい」

晃市は素直に頷いた。


忘れろと言われれば、忘れる努力はする。

だが今この瞬間だけは、胸の奥が晴れやかだった。


長い間、触れられなかった世界に、

ほんの一歩だけ足を踏み入れた。


「絶対に、誰にも言わないで」


「言いません」


それだけは守れる。


美紀はほっとしたように微笑み、いつもの穏やかな表情に戻る。


晃市の胸には、痛みではなく、

静かな高揚だけが残っていた。


――抱きしめられた。

それで十分だった。


二人は並んで売り場を出る。

夜風が頬を冷やす。


美紀は軽く会釈し、そのまま歩き出した。

振り返らない。


晃市も、振り返らなかった。

腕にはまだ、あの温もりが残っている。


それでいい。


夜空を見上げる。

後悔はなかった。


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