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第一章 決意の夜

挿絵(By みてみん)

表紙


挿絵(By みてみん)

早田晃市 五十三歳


挿絵(By みてみん)

伊沢美紀 四十歳


挿絵(By みてみん)

野島 五十一歳



「ただ……好きでした。ずっと」


「四年前、あなたがここに来た日から」


五十三歳になってから、

そんな言葉を口にするとは思っていなかった。


それでも、あの夜は言わずにいられなかった。

その一言で、彼の人生は静かに動き出していた。


長野県のコンビニ「ゆあまーと」で働く早田晃市は――


時刻は、十一時五十分。

閉店まで、あと十分。


地域密着型のコンビニ「ゆあまーと」は、すでに深夜の顔をしていた。

蛍光灯の白い光が売り場を均一に照らし、冷蔵ケースのモーター音だけが低く響いている。


客はいない。


一日の終わりを、静かに待つ時間。


だがその“いつも通り”の風景が、今夜に限って、晃市の胸を締めつけていた。


この夜、晃市の人生は静かに動き始めていた。


売り場で黙々と商品を並べ、段ボールを畳んでいる男がいる。

大柄な体躯が、蛍光灯の下で静かに目を引く。

それが早田晃市、五十三歳だった。


身長百八十五センチ、体重九十五キロ

分厚い胸板と広い背中を持つ体躯は、売り場に立つだけで自然と目を引く。


会社支給の黒いポロシャツにエプロンを掛け、頭にはバンダナを巻いている。

毎朝きちんと剃り上げた顎はうっすら青みを帯び、髭も腕の毛も濃い体質だが、手入れは欠かさない。


髪はやわらかく、癖のない質感で整えられ、顔立ちは彫りが深い。

その顔立ちと大柄な体躯が相まって、どこか日本人離れした印象を与えていた。


初めてゆあまーとを訪れた客に、外国人と間違われることすらあった。


ときおりパートの主婦たちのあいだで、「意外とイケメンよね」「ダンディで素敵」と、ひそやかにささやかれることもあった。


だが晃市自身は、それを気にしたことがない。


――外見ほど、人生は堂々としていなかった。


晃市は長野の高校を卒業し、東京の名の通った大学へ進学した。

飛び抜けて優秀というわけではなかった。

けれど、人並み以上には努力を重ね、その結果として手にした進学だった。


卒業後は、そのまま東京の会社に就職した。

大企業ではないが、決して小さくもない、名の通った会社だった。


満員電車、会議資料、営業先。地味でも真面目に働く日々。


それが、晃市の積み上げてきた時間だった。


だが会社は不景気のあおりを受けて、突然倒産した。

晃市は諦めずに働き続けたが、転職を重ねるうちに年齢が壁となり、四十代前半で地元へ戻った。


そこで見つけたのが、ゆあまーとのアルバイトだった。

最初は一時しのぎのつもりだった。だが気づけば十年以上が過ぎ、今では最古参のベテランだ。


穏やかで誠実。遅刻、欠勤、人間関係のトラブルもなく、礼儀正しく淡々と働く。

その働きぶりは、オーナーからの信頼も厚かった。


大きな出来事も楽しみもない日々。

生活のために働き、ただ時間だけが過ぎていった。


そして気づけば、女性と過ごす時間も、心から誰かを愛した記憶も、二十年以上前に遠ざかっている。


――彼の視線が向いているのは、ただ一人だった。


* * *


伊沢美紀、四十歳。


ゆあまーとで働き始めて四年目。


関東出身で、ときどき「鎌倉にいた頃は」と話す。


駅近くの新しめのマンションに住み、徒歩で通勤している。

この町に溶け込もうとしているが、どこかまだ都会の空気を残していた。


切れ長の瞳に大きな黒目。丸みを帯びた顔の輪郭の和風美人。百六十センチほどの背丈に、肩より少し長い濃い黒髪。


育ちの良さを感じさせる所作や言葉遣いはあるが、決して物静かではなく、どこか活動的で朗らかな雰囲気をまとっている。


可愛らしい顔立ちとよく通る声。

人当たりの良さと頭の回転の速さ。


そのすべてが客の支持を集め、彼女を目当てに来店する男性客も少なくなかった。


だが優しげな外見とは裏腹に、実はかなりの負けず嫌いで、芯の強い性格でもある。


そして――


結婚十年目。現在六歳の娘がいる。


四年前、初めて会ったときの美紀は、今よりずっと細身だった。まるで女子大生のように軽やかで、出産経験があるとは思えないほど華奢だった。


だが今は違う。


全体的に肉がつき、胸はふくらみ、腹部には柔らかさが宿り、腰回りは豊かに丸みを帯びている。


――美紀は、家庭のことを少しだけ打ち明けたことがある。


夫はリモートワークで一日中パソコンに向かい、子育てにはあまり関心がない。

会話も減り、営みもなくなり、今は生活のための共存に近い、と。


その状況のなかで、美紀は夫を頼らずに子育ての一番世話のかかる時期を乗り越えた。


やがて心にできた隙間を、

美紀は食べることで埋めるようになっていた


背中から腰、そして尻へと続くラインは、以前よりも確かな存在感を帯びている。


だが晃市にとって、それは衰えではない。

むしろ今のほうが、はっきりと美しかった。


そこには、生活と育児を重ねた時間があり、

そのすべてを引き受けた身体の重みがあった。


* * *


――昨夜、古くからの友人の訃報を聞いた。


小学校のころ、毎日のように一緒にいた男だった。

放課後はいつもキャッチボールをして、夏になれば河原で網を持って虫を追いかけた。


家も近く、互いの家を行き来するような間柄で、高校までは自然と隣にいた存在だった。


卒業後、彼は県外へ就職し、晃市は東京へ出た。

それでも年に数回は連絡を取り合い、帰省の折には酒を飲んだ。


その男が、心筋梗塞で急死した。


五十三歳。

同い年。


スマートフォンの画面に表示された「享年五十三」という文字を見たとき、晃市はしばらく動けなかった。


ついこの前も、

「次帰ったらまた飲もう」と笑いながら言われたばかりだった。


もう、その声は聞けない。


既読もつかない画面を見つめたまま、

胸の奥がじわりと沈み、涙が流れる。


――あいつが、いなくなった。


ようやく現実が追いついた頃、

別の思いが静かに浮かぶ。


――次は、自分かもしれない。


その夜は眠れなかった。

亡き友の事、今までの人生、現在の自分。

これからの生活。

いろいろと頭に浮かび離れない。


そして、もし明日自分が死んだら。

このままで、本当に悔いはないのか。


――答えは、もう出ている。


俺には、好きな人がいる。


きっと、無理だ。

家庭もある。立場もある。

そんなことは、わかっている。

何も言わないまま終わるほうが、きっと後悔する。


迷惑かもしれない。

それでも、一度だけでいい。

正直な気持ちを、伝えたい。


結局一睡もできないまま朝を迎えた。


そして今――

閉店までは、あとわずか。


「この前の発注、ぴったりでしたよ」

棚を見ながら、美紀が声をかける。


「え、そうですか」

段ボールを畳んでいた晃市が顔を上げる。


「在庫、ほとんど残ってないです。助かりました」

美紀が言う。


「たまたまですよ」

晃市は淡々と答えた。


「早田さん、いつもそうやって言いますよね」

美紀が笑う。


晃市は肩をすくめる。


「きっと、早田さんは堅実なんですよ」

その言葉に、晃市は何も返さなかった。


踏み越えない。

近づきすぎない。

それが、自分のやり方だった。


この距離は――安全だ。


それでも、晃市の中では、もう決まっていた。



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