第十章 宿るもの
あの午後、嵐の中のゆあまーとのバックヤードで晃市と結ばれたとき――
美紀の中で、確かに何かが動き出していた。
激しい雨音に閉ざされた、ふたりきりの空間。
晃市の体温は、確かな意志を帯びて、まっすぐに彼女へ伝わった。
その手は大きく、毛深く、それでいて驚くほど丁寧だった。
触れられるたび、美紀の内側に眠っていた“女”の輪郭が、静かに浮かび上がっていく。
甘い香りと重なる呼吸。
こぼれる吐息のなかで、ふたりの空気はゆっくりと溶け合った。
美紀は抗わず、彼に身を預ける。
そして彼の存在は、確かに、深く、身体の奥に刻まれていった。
* * *
数日後のある夜。
娘は同級生の家に泊まりに行き、家には久しぶりに夫とふたりきりの時間が訪れた。
その夜、家の空気は妙に張りつめていた。
食事を終えても、夫はテレビをつけなかった。
蛍光灯の白い光の下で、美紀をじっと見ている。
不貞を確かめる前、夫は普段は口にしないビールを立て続けに開けた。
落ち着くために流し込んだはずの苦味が、喉の奥に重く残った。
「……この前さ」
沈黙を破ったのは、夫だった。
「夜のウォーキング、ずいぶん長かったじゃないか」
美紀は一瞬だけ手を止めるが、すぐに平静を装う。
「いつもより、少し歩いただけだよ」
「一人で歩いたのか?」
夫の声が、わずかに低くなる。
「橋のほうまで行っただろ。
そこから先も一人で歩いたのか?」
美紀は顔を上げ、はっきりと言った。
「ダイエットのために歩いてるだけだよ。
一人のときもあるし、たまには誰かと一緒に歩くこともある。それだけ」
言い切りだった。
逃げも、言い訳もない。
だが夫は引かない。
「最近、雰囲気も変わった。
スマホを見る回数も増えたよな……」
疑念が、言葉になって滲み出る。
「何勝手に思い込んでるの」
美紀は静かに言った。
「私はウォーキングしてるだけなのに、
勝手に話を膨らませないでよ」
その強気な態度が、夫の神経を逆撫でした。
「……そうやって、いつも俺を突き放す」
立ち上がる音。
距離が一気に縮まる。
「ちゃんと、俺を見ろよ」
腕を掴まれ、美紀は息を呑んだ。
「やめて」
拒絶は、はっきりしていた。
だが、夫は止まらなかった。
「本当に、隠し事がないのか確かめてやる」
それは愛情ではない。
疑いと焦りが、衝動に変わっただけだった。
短く、荒い時間が過ぎる。
夫は美紀の中に、己の精一杯の熱を押し付けた。
終わると、夫は黙って衣服を整え、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
居間に戻ったのは、元の静けさだけだった。
美紀は乱れた着衣のまま天井を見つめ、涙をこらえながら静かに呼吸を整えていた。
胸の奥には、冷たく澄んだ決意が、ゆっくりと沈んでいく。
――この人を、もう許さない。
たとえ夫婦であっても、力づくで抱かれた屈辱を忘れることはできない。
この夜を境に、心は完全に切り離された。
* * *
妊娠がわかったのは、それから二週間後の朝だった。
気づいたのは、ほんのわずかな体調の変化だった。
眠気、微熱、そして違和感のある下腹部の重み。
まさか、と思いながらも、自宅のトイレで市販の妊娠検査薬を使った。
スティックに浮かび上がる、はっきりとした「陽性」の印――
美紀は数秒、言葉を失った。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「本当に……」
唇が、わずかに震えた。
自分の声が、自分の耳に届くまで、時間がかかった。
数日後の夜、夫に報告した。
「……妊娠したみたい」
一瞬、夫の表情が固まった。
夫は言葉を失い、次いで戸惑ったように頷いた。
翌日、二人は並んで産婦人科を訪れた。
診察室で告げられた妊娠週数は、はっきりしていた。
医師の説明を聞きながら、夫の表情が徐々に変わっていく。
計算は、合ってしまったのだ。
――あの夜。
疑いに駆られ、力づくで美紀を抱いた時期と、ほぼ一致している。
待合室に戻ったあと、夫はしばらく俯いていたが、やがて低い声で言った。
「……疑ったこと、謝る。
酷いことをした」
酔った勢いで野島を抱いたことなど、口にできるはずがなかった。
夫に残されたのは、美紀に頭を下げることだけだった。
美紀は何も言わず、ただ頷いた。
許したわけではない。ただ、否定もしなかった。
夫は言葉を重ねる。
「俺の子だ。
全力で愛情を注いで、大切にする」
その声を聞きながら、美紀の胸の内は奇妙なほど静かだった。
彼女の中では、答えはすでに出ている。
この子は、晃市との子だ。
理由は説明できないし、確証もない。
けれど、確信だけがあった。
それは、美紀の中では揺るがなかった。
それでも、美紀は夫の子として産むことを選んだ。
あの夜、拒んでいたにもかかわらず踏み越えられたこと。
疑われ、押さえつけられ、意志を無視されたこと。
それに対して、美紀は怒鳴りもしなかったし、恨み言も言わなかった。
ただ、償うべき責任だけを残すことにした。
晃市は、アルバイトで生きるだけでも精一杯だ。
彼に父という重さを背負わせることは、愛ではなく罰になる。
だから、この子は夫の子として生まれる。
逃げられない責任を、
夫には、父として、生涯背負ってもらう。
夫は安堵したように、美紀の肩にそっと手を置いた。
だが、その温もりは、もう彼女の心には届かない。
美紀は窓の外を見つめながら、静かに思った。
――この子は、私が守る。
誰のものでもなく、
自分の意志で。
* * *
次の日、美紀の夫は野島にスマートフォンでメールを送った。内容は、短かった。
画面に表示された名前を見た瞬間、野島は察した。
だが、それでも指は自然にメッセージを開いていた。
「妻が妊娠しました。
医師の診断も受けました。
間違いなく、僕の子です」
行間のない、断定的な文面。
そこに迷いはない。
少し間を置いて、続きが届く。
「もう、これ以上お会いすることはできません。
これで終わりにして下さい」
野島は、しばらく画面を見つめたまま動かなかった。
指先が、わずかに震える。
――終わりにして下さい。
それだけの言葉で、すべてを切り捨てられた。
喉の奥が、ひくりと鳴る。
胸の内で、何かが音を立てて崩れた。
失敗したのだ。
家庭を壊すことも、引き離すこともできなかった。
自分が踏み越えさせたはずの男は、結局、元の場所に戻った。
野島はスマートフォンを握りしめる。
今にも床へ叩きつけそうな衝動を、かろうじて押しとどめる。
呼吸が荒くなる。
「……ふざけないで」
声は低く、押し殺されていた。
怒鳴ることも、返信することもできない。
――間違いなく、僕の子。
その一文が、何度も頭の中で反響する。
あの夜の手応え。
確かに、掴んだはずだった感触。
それでも、結果はこれだ。
野島はゆっくりと息を吸い、吐いた。
怒りは、外に出せば終わってしまう。
ここで爆発させるわけにはいかない。
スマートフォンを置き、目を閉じる。
――まだだ。
敗北は認める。
だが、終わったとは限らない。
野島の唇が、わずかに歪んだ。
それは笑みとは呼べない、冷えた表情だった。
怒りは、胸の奥で静かに煮え続けている。
* * *
後日、美紀は晃市を職場近くの大きな公園に呼び出した。
空は高く、視界の開けた芝生が遠くまで続いている。
彼女は周囲を一度だけ見回し、人の気配がないことを確かめると、晃市の前で足を止めた。
言葉は、準備してきたはずなのに、すぐには出てこなかった。
それでも、美紀は小さく息を吸い、低い声で言った。
「……妊娠しました」
美紀は一度だけ、言葉を濁すような視線を晃市に向けた。
何かを言いかけて、飲み込むような揺れがあった。
「主人の子です。……晃市さんには、関係ないこと……のはずです」
言葉が途切れる。
その沈黙が、晃市の胸を締めつけた。
「……それでも、私の気持ちまで変わったわけじゃありません」
すぐに視線をそらし、わずかに微笑む。
ほんの一瞬だけ、晃市を見る。
静かな目だった。
「あの時間が、私にとって大切だったことは……今も同じです」
晃市は何も言えず、ただうなずいた。
喉の奥で、何かが引っかかったまま動かない。
主人の子。
その言葉を、頭では理解できた。
けれど、胸の奥は別だった。
(……してたんだ)
晃市は、どうしようもない考えを振り払えずにいた。
美紀が、あの家で、夫と触れ合っていたこと。
自分の知らない場所で、知らない時間を過ごしていたこと。
分かっていたはずなのに。
既婚者だと、最初から知っていたのに。
それでも――
(嫌だな)
嫉妬だった。
情けないほど、はっきりとした嫉妬。
思考はそこで止まり、先に進まなかった。
落胆も、安堵も、嫉妬も、同時に胸に湧いては絡まり合う。
夫婦なのだから、そういうこともある――
そう自分に言い聞かせながら、納得したふりをするしかなかった。
――美紀は穏やかに笑った。
優しく、どこか爽やかな笑顔だった。
「……じゃあ、また職場で」
それだけ言って、踵を返す。
足取りは早く、振り返ることはない。
残された晃市は、その背中を見送ることもできず、視線を地面に落とした。
何も言えなかった。
* * *
それから二人は、また同じようにゆあまーとで顔を合わせるようになった。
レジに立ち、品出しをし、客には変わらぬ笑顔で応対する。
時には同僚として、たわいもない雑談も交わす。
表面上は、何も変わっていない。
だが――
二人の関係は、静かに終わっていた。
それでも、ふとした拍子に、晃市は美紀の視線を感じることがある。
仕事の合間、レジ越しに向けられる目は、以前より距離を保っていた。
けれど、その奥にあるものまでは、消えていないように思えた。
静かで、穏やかな光。
ただの同僚に向けるものではないと、晃市は感じている。
消えたのではない。
抑えているだけだ。
嬉しさと、踏み込めない苦しさが押し寄せる。
それでも晃市は、何も言わなかった。
ただ、いつものように小さく微笑みを返す。
それが今の二人に許された距離だった。
――それでいい。
そう思わなければ、立っていられなかった。




