最終章 さようならの代わりに
春が、柔らかな陽を連れてきた。
街路樹の芽は膨らみ、制服姿の子どもたちが笑い声を立てながら通りを駆けていく。
ゆあまーとのバックヤード。
かつて美紀と結ばれたその場所で――晃市は、変わらぬ日々の中、変わらぬ作業をこなしていた。
段ボールを静かに開き、商品を一つひとつ棚に並べながら、ふとした瞬間に思い出す。
美紀のことだ。
彼女は、あれからしばらく変わらず出勤していた。
ただ、以前のように無理はしなくなっていた。
重いものは持たず、動きもどこか慎重になっている。
それは、他のパートたちの目にも自然と伝わっていた。
季節が少しずつやわらぎ始めたころ、シフトは徐々に減っていった。
ある日、バックヤードでふたりきりになる。
美紀が、少しだけ笑った。
「最近、動くの遅くなっちゃって」
軽い口調に、晃市もわずかに口元を緩める。
「無理しないでください」
「はい。ちゃんと手抜きしてます」
そのやり取りに、少しだけ空気がやわらいだ。
「しばらくお休みいただきます」
軽く頭を下げて、美紀は続ける。
「落ち着いたら、また戻れたらと思ってます」
晃市は小さくうなずいた。
「戻ってきたら、またよろしくお願いします」
美紀がふっと笑う。
「そのときは、手加減してくださいね」
晃市も、わずかに口元を緩める。
「それは、ちょっと難しいかもしれません」
短く笑い合う。
「……無事に産まれるといいですね」
「ありがとうございます」
それ以上は、続かなかった。
美紀はそのまま売り場へ戻っていく。
そして、産休へと入っていった。
晃市は、その事実をなるべく意識の外に置こうとした。
ただ黙々と作業を繰り返すことで、日々をやり過ごした。
* * *
美紀が産休に入ってから、ゆあまーとはどこか静かになった。
レジに立つのは、晃市と野島の二人きりになることが多い。
必要なことだけを交わし、会話は長く続かない。
それでも、同じ空間にいる時間だけは増えていく。
その沈黙を、野島は待っていた。
商品の補充、在庫の確認――理由はいくらでもある。
「最近、店も静かになったね」
「……そうですね」
晃市は視線を上げない。
野島はわずかに距離を詰める。
「発注前にバックヤードの在庫見に行かない?」
短い返事とともに、二人は奥へ入る。
扉が閉まる。
蛍光灯の白い光が、二人だけを照らす。
飲料の棚に手をかけたまま、野島は言った。
「去年の夏さ、伊沢さんがまだいた頃。
夜の橋で、あの人と二人きりだったよね」
晃市の手が止まる。
「……私、見てたんだ」
間を置く。
「いい歳した男女が、あんな時間に二人きり。
普通だと思う?」
晃市がはっきりと答える。
「ただのウォーキングです」
「ふふ、本気で言ってる?」
「はい」
迷いはない。
野島は小さく笑う。
「無理あるって」
一歩、近づく。
「早田くんがあの人を見る目、ちゃんと分かるから。
あれ、同僚の目じゃないよ」
視線を外さない。
「伊沢さんのこと、好きだったでしょ」
断定だった。
晃市は答えない。
「……だから、黙ってた」
もう一歩、距離が縮まる。
「早田くんのこと、私嫌いじゃなかったから」
視線を外さない。
「あの女がいなくても――」
間を詰める。
「私がいるじゃない」
野島は晃市の腕に指をかけ、そのままそっと身を寄せた。
甘えるように身体を預けると、胸元が静かに触れる。
上目遣いで囁く。
「十年も一緒に働いてきたんだから。
私のほうが、あなたのこと分かってる」
野島の手が、晃市の腕からそのまま自分のポロシャツの裾へと滑る。
ためらいもなくつかみ、そのまま引き上げた。
頭から脱ぎ捨てる。
黒い布が足元に落ちた。
無駄のない細身の身体があらわになる。
黒いブラジャーに包まれた胸が、くっきりと浮かび上がる。
野島は一歩、晃市に近づいた。
「……これでも?」
低く、静かに問いかける。
距離を詰めたまま、視線を外さない。
「――何とも思わない?」
わずかに首を傾ける。
短い沈黙。
「……私が受け止めてあげる」
一瞬だけ間を置いて、
「抱き締めてもいいよ……」
目は逸らさない。
野島は晃市の手を取り、そのまま胸へ導く。
拒ませない動きだった。
「……好きにしていいよ」
ほんのわずかに、笑う。
わずかな間、晃市は何も言わない。
やがて、指をひとつずつほどくようにして、
そのまま手を引いた。
晃市は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに顔を上げた。
触れていた感触を切り離すように、静かに息を吐く。
* * *
「違います」
間を置かない。
「あなたを、そういう目で見たことは一度もありません。これからも、ありません」
視線は逸らさない。
「最初から、同僚としてしか見ていません」
はっきりと言い切る。
沈黙が落ちる。
野島は動かない。
黒いブラジャーのまま、その場に立っている。
やがて唇が、わずかに歪んだ。
「なんで……」
野島は唇を噛む。
「なんであの女なのよ」
晃市は答えない。
「私の方が先に好きだった」
声が震える。
「私の方が早田くんのこと見てた」
一歩近づく。
「私なら、もっと大事にできる」
晃市は黙ったまま。
野島の目に涙が滲む。
「私の方が綺麗じゃない!」
「私の方が早田くんのこと考えてる!」
「私のどこが伊沢美紀に負けてるのよ!」
叫ぶように言い切った。
だが、晃市は何も答えない。
その沈黙だけで十分だった。
野島は小さく笑う。
「そっか」
視線が落ちる。
「じゃあ、最初から勝ち目なかったんだ」
笑おうとするが、口角がうまく上がらない。
晃市は、一度も揺れていなかった。
その事実だけが、静かに残る。
野島は何も言わない。
喉の奥で言葉が止まり、そのまま声にならない。
胸の奥が、すっと冷えていく。
蛍光灯の光が、やけに冷たく見えた。
数日後、野島はオーナーに退職を願い出た。
理由は言わなかった。
そして、彼女は夫と子供達を残して関西の実家へ戻った。
ここに留まる意味が、完全になくなったからだ。
野島は、ゆあまーとから、晃市から、そして伊沢美紀から――
完全に姿を消した。
* * *
その数か月後――
「咲良ちゃんっていうんだって」
レジ奥から聞こえてきた何気ない会話に、晃市の手がふと止まった。
晃市は、近くで作業をしていたパートの主婦に声をかける。
「女の子なんですね」
「うん。伊沢さんそっくりらしいよ。よく笑う子でね。
赤ちゃんなのに目鼻立ちがはっきりしてて、すごく可愛いって」
「……旦那さんは?」
「目の中に入れても痛くないって、本気で言ってたってさ」
明るい声に相槌を打ちながら、晃市は静かに微笑み、手元の商品を整えた。
――よかったな、美紀さん。
無事に出産を終え、夫と娘と、新しい家族としての日々を送っている。
それを思い浮かべるだけで、胸の内が少しだけ和らいだ。
「目鼻立ちがはっきりしてて……」
その言葉が、晃市の胸にほんの一瞬だけ引っかかった。
ありえない考えが、かすめる。
(……まさか)
だが晃市は、すぐにその思考を手放した。
深く息をつき、静かに気持ちを整える。
美紀が母となり、笑って生きている。
それだけでいい。
それだけで、十分だった。
ある日、晃市のロッカーに一通の封筒が差し込まれていた。
差出人の名はない。
だが、封筒に書かれた文字を見た瞬間、晃市には分かった。
――伊沢美紀。
中には、一枚の便箋が折られていた。
⸻
晃市さんへ
もし、あなたと出会っていなかったら、
私はきっと、誰にも見せられない自分のまま、
女としても、母としても、自信を持てずにいたと思います。
あの日々は短い時間でした。
でも、あなたと過ごした確かな現実でした。
そしてそれは、私にとっての「始まり」でした。
私は、また母になりました。
娘の顔を見た人たちは、「私にそっくり」と言います。
けれど私は知っています。
この子の輪郭に、あなたの面影があることを。
誰にも言いません。
知らせることもありません。
ただ、この子を一生愛していきます。
あなたと過ごしたあの時間も、
誰にも語らず、胸の奥に大切にしまっておきます。
「私でいい」と思わせてくれたこと、
心から感謝しています。
ありがとう。
さようならとは、書きません。
言葉にしない別れを、ここに残します。
伊沢美紀
⸻
手紙の最後に残されていたのは、言葉にしない別れだった。
消えゆく言葉ではなく、静かに息づく想い。
「この子の輪郭にあなたの面影があることを」
その一文を読んだ瞬間、晃市の胸が、はっきりと音を立てて震えた。
遠回しな言葉だった。
それでも、意味を取り違える余地はなかった。
――この世界に、自分の子がいる。
驚きと同時に、熱いものが胸の奥に込み上げる。
言葉にならない感情が、息を詰まらせた。
産んでくれた。
何も言わず、何も求めず、ただ一人で決めて――それでも産んでくれた。
晃市は、しばらく便箋から目を離せずにいた。
胸の奥に、感謝と喜びと、どうしようもない衝動が渦を巻く。
会いたい。
子どもの顔を、この目で見てみたい。
ほんの一瞬でいい。声を聞いて、確かめてみたい。
だが、その考えはすぐに胸の奥へ押し戻された。
――それは、美紀の望んだことじゃない。
彼女は、あえて知らせなかった。
晃市に何も背負わせないために。
この生活を、静かに守るために。
晃市は、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
たとえ――
これから先、美紀と会釈すら交わせなくてもいい。
遠くから、ただ想像するだけでいい。
晃市は、そう思うことで、自分の胸を静かに押さえつけた。
それで十分だと、何度も自分に言い聞かせる。
想いは、語られなくても消えはしない。
言葉にせず、胸の奥に抱えたまま生きていくこと――
それが、今の自分にできる、唯一のやさしさだった。
「……ありがとう、美紀さん」
その呟きは、柔らかな空気に溶け、
行き場のないまま、静かに消えていった。
晃市は手紙をそっとロッカーにしまい、売り場へ戻った。
目の奥が、ほんの少しだけ熱くなる。
それは別れの涙ではない。
そう思うことで、晃市は自分の気持ちを静かに押さえ込んだ。
胸の奥には、まだ消えない温度が残っている。
晃市はそれを否定しなかった。
冷蔵ケースの扉を開け、晃市は深く息を吸い込む。
いつものように品出しを始めた。
* * *
夕方、勤務を終えて店を出る。
澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込み、歩き出した。
美紀の手紙を読んでから、胸の奥が落ち着かない。
理由は分かっている。
理解したつもりでも、想いまで整理できるわけではなかった。
考えないようにしても、浮かんでくる。
美紀のこと。
そして、この近くで生きている、小さな命のこと。
忘れなくてもいい。
前を向くとは、そういうことだと思った。
――今は、それでいい。
店からの帰り道。
住宅の並ぶ、ゆるい上り坂だった。
晃市はその道を、ゆっくり歩いていた。
「……晃市さん」
背後から、不意に声がかかる。
晃市は振り返った。
聞き覚えのある声だった。
思わず足が止まる。
そこに、美紀が立っていた。
娘と手をつなぎ、もう片方の手はベビーカーにかけて。
その目が、まっすぐ晃市を見ていた。
晃市は、一瞬言葉を失う。
娘は屈託のない声で言う。
「こんばんは!」
晃市も思わず挨拶を返した。
ベビーカーの中では、生まれたばかりの赤ん坊が静かな寝息を立てている。
その小さな顔を見た瞬間――
胸の奥が、強く打たれた。
視線が、赤ん坊から離れない。
次の呼吸を、忘れていた。
初めて見るはずなのに、
なぜか知っている気がした。
理屈ではない。
身体が先に、答えを出していた。
胸の奥が、強く震える。
美紀が、少しだけ照れくさそうに笑う。
「……会わないつもりだったんですけど、来ちゃいました」
言い訳のようで、どこか隠しきれない響きがあった。
それでも、その目はまっすぐだった。
晃市は何か言おうとして、やめた。
もう会うことはないと、どこかで決めていた。
そう思い込もうとしていた。
それでも――
胸の奥が、静かにほどけていく。
「……元気そうで、よかった」
それだけを、ようやく口にする。
こうして目を合わせられただけで、十分だった。
夕暮れの風が吹く。
晃市は、もう一度だけ赤ん坊を見る。
胸の奥が、静かに満ちていく。
――目を逸らしたら、終わる気がした。
何も言わない。
それでいいと、思うことにした。
短い再会は、
あたたかな温度だけを残して、夜へ溶けていった。
完
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
この物語が、誰かの心に少しでも残れば嬉しいです。




