第9話『あの子はまだ、あの花の前で笑っている』
帰り道。薬草の袋を抱えたリリアーナは上機嫌だった。
月光草が手に入った。南方産の精霊苔も。これで回復薬の新しい配合が試せる。研究塔に戻ったら——いや、今日はもう施錠されている。明日の九時まで待たなくてはいけない。
待ち遠しい。明日が待ち遠しいなんて、久しぶりの感覚だった。普段は夜通し研究できるから「明日」を待つ必要がないのだ。ダリアの計画書は、思わぬ副産物を生んでいた。
街の通りを歩く。ダリアが先頭、リリアーナが真ん中、マギーが後方。行きと同じ護衛隊形だ。
通りすがりの街の人が、リリアーナに会釈をしてくれる。「森の魔女様、こんにちは」「今日もお元気そうで」。顔なじみのパン屋が手を振り、果物屋のおばさんが林檎を一つおまけしてくれた。
リリアーナはにこにこしながら「ありがとう」「ええ、元気よ」と返す。街に来ると、いつもこうだ。屋敷では娘たちとしか話さないから、他の人間と会話するだけで楽しい。
ダリアは相変わらず周囲を警戒している。果物屋のおばさんにすら鋭い視線を送っていた。おばさんは慣れた様子で「ダリアちゃんもお元気ね」と笑っていた。ダリアちゃん。騎士団のエースがダリアちゃんと呼ばれている。この街では彼女はまだ「森の魔女様のところの長女」だ。
森の入り口の手前に、小さな花屋があった。
屋根のない露店で、木の台の上に鉢植えや切り花が並んでいる。季節の花が色とりどりに咲いていて、秋の日差しの中で揺れている。
リリアーナの足が止まった。
「あら」
台の端に、見覚えのある花が並んでいた。鮮やかな赤。大きく開いた花弁。堂々として、華やかで、一目で視線を引く花。
ダリア。
「きれいね……」
手を伸ばして、花弁にそっと触れた。
この花を見ると、いつも思い出す。二十年前の秋の日を。
ダリアが五歳の頃だった。
一緒に街に買い物に来た帰り道、この花屋の前を通りかかった。まだ歩き方がおぼつかなくて、リリアーナの手をぎゅっと握って、よちよちと歩いていた頃だ。
花屋の台に並んだダリアの花を見て、小さなダリアが目を丸くした。
——ママ! この花、ダリアって書いてある! ダリアと同じ名前!
嬉しそうだった。自分と同じ名前の花があることが、世界で一番の大発見みたいに嬉しそうだった。花の前で飛び跳ねて、リリアーナの手を引っ張って、何度も「ダリア! ダリア!」と言っていた。
それから花屋のおじさんに「この花、ダリアっていうの? ダリアもダリアっていうの!」と自己紹介を始めた。おじさんが笑って、一輪だけダリアの花をくれた。小さなダリアはその花を宝物みたいに両手で抱えて、帰り道ずっと話しかけていた。花に。自分と同じ名前の花に。
——ママ。ママと同じ名前の花もある?
あるわよ、と答えた。百合よ、と。
——じゃあダリアと百合は一緒だね! ダリアとママは、お花もお名前もずっと一緒!
あの笑顔を、十四年経った今でも忘れられない。
「お母様?」
ダリアの声で我に返った。
十九歳のダリアが、怪訝な顔でリリアーナを見ている。騎士の顔。凛として、隙がなくて、五歳の頃の笑顔をどこかに仕舞い込んでいる顔。
「何をご覧になっているんですか」
「この花。ダリアが小さい頃に好きだった花に似てるなと思って」
ダリアの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
騎士の顔に、わずかな亀裂が入った。
「……覚えてるんですか。そんな昔のこと」
「もちろんよ。あなたのことは全部覚えてるわ」
全部。本当に、全部だ。
五歳の時にこの花の前で飛び跳ねたことも。七歳の時に初めて木剣を振ったことも。十歳の時に「ママを守る騎士になる」と宣言したことも。十三歳の時に初めて「お母様」と呼び方を変えた日の、少し寂しそうな顔も。
全部覚えている。母というのは、そういう生き物だ。
ダリアが顔を背けた。
耳が赤い。首筋まで赤い。騎士団のエースが、花屋の前で耳まで真っ赤になっている。
「……昔の話です」
「昔の話でも、覚えてるものは覚えてるの」
「……もう行きましょう、お母様。日が暮れます」
足早に歩き出した。背筋は伸びている。騎士の歩き方だ。でも耳だけが、どうしようもなく赤い。
リリアーナは小さく笑った。
あら。ダリアが照れている。珍しい。あの鉄壁の長女が、花の名前一つで耳まで赤くなる。
かわいい。
十九歳になっても、騎士団のエースになっても、母の前では照れる。この子は根っこのところは変わっていないのだ。五歳の時に花の前で飛び跳ねていた、あの子のままだ。
マギーが、後ろからそっと近づいてきた。
「御母上様。今の、記録してもよろしいですか」
「何を」
「ダリア姉さまの赤面。聖典の付録に——」
「駄目よ」
即答した。これは記録させない。ダリアの照れた顔は、母だけの宝物だ。
「マギー。これは秘密ね?」
「……承知いたしました。しかし、非公開の特別資料として——」
「駄目」
「……はい」
マギーが残念そうにメモ帳をしまった。
前を歩くダリアの耳は、森の入り口に差しかかっても、まだ赤かった。




