第7話『三対一で負けました(自分の家なのに)』
翌朝。リリアーナは早起きした。
昨夜ベッドに入ったのは二十二時。ダリアの計画書に従った結果だ。普段なら深夜三時まで研究塔にいるところだが、「初日くらいはダリアの言うことを聞こう」と思って素直に寝た。
結果、信じられないほどよく眠れた。目覚めも良い。体が軽い。
悔しいが、ダリアの計画書は正しかったのかもしれない。
七時。朝食の前に、少しだけ研究の続きをしよう。万象循環理論の第七章、昨日の途中から——
研究塔の扉の前で、足が止まった。
鍵がかかっていた。
一つではない。三重だ。魔法鍵が三層に重なっている。第一層は封印系、第二層は時限式、第三層は認証式。どれも精度が高い。術式の組み方に見覚えがある。
ダリアの手仕事ではない。ダリアは剣士であって魔法の専門家ではない。この鍵を作ったのは——
「おはようございます、御母上様」
背後からマギーの声がした。振り向くと、末娘がエプロン姿で立っている。手にはお盆。お盆の上には朝食。昨日と同じ構図だが、今日は研究塔ではなく廊下だ。
「マギー。この鍵は」
「私が施しました。ダリア姉さまの計画書に基づく、研究塔の利用時間管理です」
マギーだった。付与魔法の天才。護符や魔法具を作らせたら学院の教授より上だと言われている末娘が、その才能を母親の研究塔の施錠に全力投入していた。
「解錠は午前九時です。施錠は午後十二時。一日三時間。夜間は完全封鎖です」
「マギー、これ、私の研究塔なのよ?」
「はい。御母上様の聖なる研究塔です。だからこそ、聖体の健康を守るために管理が必要です」
自分の家の自分の研究塔に、自分の娘に鍵をかけられている。世界最強の魔導師が、十五歳の娘の付与魔法で締め出されている。
力ずくで解除できるかと言えば、できる。万象の魔法をもってすれば、この程度の封印は一瞬で解ける。
だが——それをしたら、マギーが泣く。マギーが泣いたらカミリアが怒る。カミリアが怒ったらダリアが出てくる。ダリアが出てきたら計画書の改訂版が出てくる。改訂版はきっと今より厳しい。
詰んでいた。
階段を下りると、居間でダリアが待っていた。完璧な姿勢でソファに座り、手元にはリリアーナの一日のスケジュール表がある。
「おはようございます、お母様。よくお眠りになれましたか」
「ええ……おかげさまで」
「結構です。本日のスケジュールを確認します。七時、朝食。八時、自由時間。九時から十二時まで研究。十二時、昼食——」
読み上げが始まった。
リリアーナは黙って聞いた。反論する余地がないスケジュールだった。隙がない。騎士団で作戦計画を立てる人間が作ったスケジュールは、完璧すぎて突っ込みどころがない。
「お母様。一点、追加の提案があります」
追加。まだあるのか。
「外出時の護衛について。お母様が街に出る際は、必ず私が同行します」
「ダリア、買い物に行くだけよ?」
「買い物であっても、お母様は万象の魔女です。お母様の存在を知る者は多い。万が一のことがあれば——」
「万が一は万が一よ。滅多に起きないから万が一なの」
「滅多に起きないことに備えるのが護衛です」
正論だった。正論なのだが、娘に護衛されて買い物に行く母というのはどうなのだろう。
カミリアが階段を下りてきた。寝起き。パジャマ。目が半分閉じている。
「……ママ、おはよ……」
氷の才媛の朝だ。覚醒率およそ三割。
「おはよう、カミリア。あのね、ダリアが研究塔に鍵をかけたの。ママ、困ってるのよ」
助けを求めたつもりだった。姉妹間の意見が割れれば、多数決で逆転できるかもしれない。
カミリアが目をこすりながら答えた。
「……賛成」
「え」
「ママ、昨日ちゃんと寝たでしょ。顔色いいもん。……鍵のおかげ」
裏切られた。しかも根拠が的確だった。
確かに今朝は顔色がいい。鏡で確認した。インクもついていない。八時間眠ったのは何ヶ月ぶりだろう。
でも、研究が。万象循環理論の第七章が。佳境なのだ。
マギーがお盆を食卓に置きながら、静かに宣言した。
「三対一です、御母上様」
三対一。カミリアが起きてすらいない状態でこの結果。完全敗北だった。
リリアーナは椅子に座って、朝食のパンをちぎった。
マギーのパンは今日も美味しい。焼き加減が完璧だ。バターを塗ると、ほんのり甘い香りが広がる。
娘たちに管理されている。自分の家で。自分の研究を。自分の体を。
……嫌ではなかった。嫌ではないのだが、研究塔の鍵だけは、もう少し交渉の余地がほしい。
「ダリア」
「はい、お母様」
「三時間を、四時間にしてもらうことは……」
「却下です」
「三時間半は」
「却下です」
「三時間十五分」
ダリアが無言でリリアーナを見た。表情は動かない。しかし目が「お母様、往生際が悪いです」と言っている。
「……三時間ですね。わかりました」
万象の魔女は今朝も、娘に負けた。




