第5話『全員の好物は覚えているのに、自分の皿がない』
台所に立つと、リリアーナは落ち着いた。
ここだけは、誰にも取り合いをされない聖域だ。マギーは「聖域」という言葉を別の意味で使うだろうが。
今夜はダリアが帰ってきた日だ。久しぶりに全員が揃う夕食になる。
リリアーナは棚を開けて、食材を確認した。
ダリアの好物は、骨付き肉の赤ワイン煮込み。小さい頃から肉が好きだった。五歳の時に「ママのお肉が世界一」と言ってくれたことを、今でも覚えている。あの頃はまだ「ママ」と呼んでくれていた。今は人前では「お母様」だ。
カミリアの好物は、きのこのグラタン。チーズが溶けてとろとろになったのを、小さなスプーンで一口ずつ食べる。食べ方が上品なのは昔からだった。外面も内面も関係なく、カミリアは食事だけはいつも丁寧だ。
マギーの好物は、かぼちゃのポタージュと焼きたてのパン、それにチーズと蜂蜜のオーブン焼き。ポタージュとパンは朝も作ってくれたが、夕食にはオーブン焼きが加わる。とろけたチーズに蜂蜜の甘さが絡む一皿を、マギーは「御母上様が最初に教えてくださったお料理です」と言って、何度でもおねだりする。
三人分の好物を全部作ろう。今夜は特別な夜だから。
リリアーナは鼻歌を歌いながら料理を始めた。煮込みの鍋に火をかけて、グラタンのホワイトソースを作って、ポタージュを温め直して、パンの生地をこねて、チーズのオーブン焼きを仕込む。五品を同時進行で作れるのは、万象の魔法とは何の関係もない。ただの、二十年間の母親業で身についた技術だ。
時折、居間から声が聞こえてくる。膝の議論はいつの間にか終わったらしく、三人でダリアの騎士団の話を聞いている。カミリアが質問をして、ダリアが答えて、マギーが「聖典に記録します」と言っている。賑やかだった。
一時間後。食卓に料理を並べた。
ダリアの前に、骨付き肉の赤ワイン煮込み。
カミリアの前に、きのこのグラタン。
マギーの前に、かぼちゃのポタージュと焼きたてのパン、チーズと蜂蜜のオーブン焼き。
それぞれの皿の横に、飲み物も置いた。ダリアにはハーブティー。カミリアにはミルクティー。マギーにはりんごジュース。
全員の好みを、間違えたことは一度もない。
「いただきます」
三人が食べ始めた。
ダリアが一口食べて、わずかに目を伏せた。「美味しい」とは言わない。言わないが、二口目に行く速度が速い。これがダリアの「美味しい」だ。
カミリアが小さく「……ママの味」と呟いた。学院の食堂では絶対に見せない、蕩けた顔をしている。
マギーが目を閉じて「聖なる晩餐……」と噛みしめている。
リリアーナは満足だった。この三人が美味しそうに食べている顔を見るだけで、料理の疲れは全部消える。
「ダリア、もう一皿いる?」
「いただきます」
「カミリアも? チーズ多めに作ったのよ」
「……うん。もう少しだけ」
「マギー、パンのおかわりは——」
「はい! 御母上様!」
せっせと取り分ける。よそう。配る。全員の皿が空にならないように目を配る。
食事中のリリアーナはよく動く。自分が食べるよりも、娘たちの皿を見ている時間のほうが長い。
ダリアが箸を止めた。
「お母様」
「なあに?」
「ご自分のお皿は?」
リリアーナは自分の席を見た。
皿がなかった。
取り皿も、箸も、飲み物も——何もない。三人の分を配ることに夢中になって、自分の分を用意するのを完全に忘れていた。
「あら」
カミリアがフォークを置いた。
「……ママ、また?」
「また」だった。また、なのだ。これが初めてではない。初めてどころか、三人が覚えている限り、リリアーナは月に一度はこれをやる。
マギーが静かにメモ帳を取り出した。
「御母上様の自己管理能力、本日のスコアはマイナスです。朝食の遅刻、昼食のインク付着、夕食の自己分忘れ。三件。一日の最多記録に並びました」
記録されていた。数値化までされていた。
「あらあら。えへへ」
笑ってごまかそうとした。三対の目がリリアーナを見ている。誰も笑っていない。
ダリアが立ち上がり、台所から皿と箸を持ってきた。煮込みの鍋から肉をよそい、グラタンを取り分け、ポタージュを注ぎ、リリアーナの前に並べた。手際がよかった。騎士団で後輩の食事を管理している時と同じ動きだった。
「食べてください」
「ありがとう、ダリア——」
「全部です」
「……全部?」
「残さず、全部です」
カミリアがミルクティーを淹れて、リリアーナの横に置いた。
「ママ。飲み物も」
「ありがとう、カミリ——」
「お砂糖は二つ。ママの好みでしょう」
知っている。娘たちも、母の好みを知っている。
リリアーナが全員の好物を忘れないように、娘たちも母の好物を忘れていない。ただ、リリアーナ自身が自分の好物を後回しにするだけで。
マギーがパンを一つ、リリアーナの皿に載せた。
「御母上様。明日からは私が配膳を担当します。御母上様は座っていてください」
「でも、私が作りたいの——」
「作るのはいいです。配るのは私がやります。御母上様は、ご自分の分を忘れるので」
反論できなかった。事実だった。
リリアーナはスプーンを取って、ポタージュを一口すすった。自分で作ったポタージュだ。マギーのレシピを元に、少しだけアレンジを加えている。
美味しかった。自分で言うのも変だが、美味しかった。
食卓を見回す。
ダリアが安心した顔で肉を食べている。カミリアがグラタンの最後の一口を名残惜しそうに味わっている。マギーがパンをちぎりながら、こっそりメモ帳に何か書いている。たぶん聖典の新しい一節だ。
賑やかで、温かくて、少しだけ騒がしい食卓。
これが、花籠の館の夕食だ。




