第4話『私の膝に使用権があるらしい 』
夕方。玄関の扉が開く音がした。
「ただいま戻りました、お母様」
カミリア。十八歳。リリアーナの二番目の娘。
王都の魔法学院に通う最上級生で、学年首席。「氷の才媛」の異名を持つ——と、先日学院の教授が訪ねてきた時に聞いた。へえ、そんなふうに呼ばれているのか、と驚いた。
なぜなら、リリアーナが知っているカミリアは、毎朝寝ぼけながら「ママぁ、いってきまぁす」と甘えた声で言う少女だからだ。今朝も、出発前にリリアーナの部屋に来て、半分眠ったまま頬ずりをしていった。氷の才媛。どこが。
しかし、帰宅直後のカミリアは確かにその異名に相応しかった。
銀縁の眼鏡。きちんと整えられた栗色の髪。姿勢は正しく、表情は涼しく、所作に隙がない。朝のあの生き物とは同一人物に見えなかった。
この変身を毎日やっているのだと思うと、娘ながらに大したものだとリリアーナは感心する。
「おかえりなさい、カミリア。今日はダリアが帰ってきたのよ」
「……姉さんが?」
カミリアの視線が、居間のソファに移った。
ダリアがそこにいた。リリアーナの隣に座って、計画書の修正作業をしている。リリアーナの隣——つまり、カミリアがいつも座る席だ。
カミリアの足が、一瞬だけリリアーナの方に向いた。
帰宅直後の習慣だった。鞄を置いて、靴を脱いで、まっすぐ母の膝に倒れ込む。外面を全部脱ぎ捨てて、「ママ」に戻る。それが毎日のカミリアの儀式だ。
しかし今日は、その膝の隣にダリアがいる。
カミリアの足が止まった。氷の才媛の表情が一瞬だけ揺れて、すぐに戻った。
一瞬、空気が変わった。
カミリアの目が細くなる。ダリアが顔を上げる。二人の視線がぶつかる。
「お久しぶりですね、姉さん」
「ああ。元気そうだな、カミリア」
穏やかな会話だった。声も表情も穏やかだった。
ただし、リリアーナにだけわかることがある。この二人の間に流れている空気は、穏やかの対極にある。
カミリアがリリアーナの右隣に座った。
ダリアが左隣にいる。
リリアーナが真ん中に挟まれた。
二人とも、自然な動作だった。喧嘩をしているわけでもない。ただ、リリアーナの隣という席を、どちらも譲らないだけだ。
カミリアの手がリリアーナの右腕にそっと添えられた。指先に力はない。ただ触れているだけ。
ダリアの手がリリアーナの左腕に置かれた。こちらもさりげない。護衛のような自然さで。
問題は、時間が経つにつれて双方の力が少しずつ強くなることだった。
カミリアの細い指が、気づけばリリアーナの腕をしっかり掴んでいる。学院で最高成績を修める繊細な指先が、この時ばかりは遠慮を知らない。
ダリアの手は、もともと剣を握る手だ。力の入れ方が根本的に違う。護衛のつもりなのだろうが、護衛対象が悲鳴を上げそうになっている。
二人とも顔は平静だった。平静なまま、母親の腕をじわじわと引っ張り合っている。
痛い。正直に言うと、かなり痛い。
しかし「痛い」と口にすると、二人とも弾かれたように手を離してしまう。それはそれで寂しいのだ。娘に触れてもらえることは嬉しい。ただ、もう少し——もう少し、力加減を覚えてほしい。
「お母様。夕食の前にお風呂を済ませましょう。お湯の温度は私が——」
「ママ。今日の学院のお話、聞いてくれる? 面白い論文があったの——」
同時に話しかけられた。
ダリアとカミリアが、リリアーナを挟んだまま、もう一度視線をぶつけた。
困った。
どちらの話も聞きたい。お風呂も入りたいし、カミリアの論文の話も聞きたい。しかし体は一つしかなく、時間の流れも一本しかない。万象の魔法をもってしても、自分を二人に分けることはできなかった。
「あらあら。順番に——」
「お母様のお体が冷える前にお風呂が先です」
「ママ、論文の内容忘れちゃうから先に聞いて」
順番という概念が、この二人の辞書には載っていないらしかった。
マギーが、台所からひょっこり顔を出した。
「姉さま方。御母上様の膝は一つしかございません。聖なる膝の使用権は公平なローテーションにすべきだと、私は前々から申し上げております」
膝の使用権。
リリアーナは、自分の膝に使用権という概念が発生していることを今初めて知った。いつ発生したのだろう。誰が決めたのだろう。少なくとも本人は同意した覚えがない。
「マギー。私の膝は別に聖なるものではないのよ?」
「御母上様の全ては聖なるものです」
「……全て?」
「マギーは黙っていろ」とダリアが言った。
「マギーは関係ないでしょう」とカミリアが言った。
珍しく姉妹の意見が一致した。一致する場所がそこなのが問題だった。
「御母上様のお膝は全員のものです! 独占は許されません!」
マギーが抗議の声を上げた。ダリアとカミリアが同時に振り向いた。三つ巴の空気が形成された。
リリアーナの膝をめぐる三姉妹の戦いが——どうやら始まってしまったらしい。
リリアーナは、その隙にそっとソファから立ち上がった。
三人が膝の所有権について真剣に議論している間に、台所に逃げ込む。誰も気づいていない。
世界最強の魔導師が、自分の居間から逃走した。
台所で、ひとり、静かに息をつく。
両腕を引っ張られた名残で、肩が少し痛い。あとで湿布を貼ろう。万象の魔法で治すほどでもない、娘に引っ張られた程度の痛みだ。
窓から見える庭では、秋の花が夕日に照らされていた。ダリアの花。カミリアの花。マギーの花。並んで咲いている。仲良く。穏やかに。
花は喧嘩しない。同じ花壇で、同じ土から水を吸って、同じ太陽を浴びて咲く。
娘たちも同じように育てたのだが。
居間からは、膝の議論がいつの間にか「誰が一番お母様のことを想っているか」という不毛な争いに発展した声が聞こえてくる。
リリアーナは小さく笑った。
大変な子たちだ。本当に、大変な子たち。
でも——三人とも元気そうで良かった。




