第3話『長女が帰ってきたので、研究が三時間になりました』
顔を洗って、着替えて、マギーに引きずられるようにして居間に下りた。
遅い朝食——というよりもう昼食だが——の続きを食べていると、ふいに空気が震えた。
森の結界が反応している。
リリアーナが屋敷の周囲に張り巡らせた防護結界。登録済みの人物が通過すると、魔力の波紋が柔らかく伝わってくる仕組みだ。波紋のパターンは人によって違う。
今感じた波紋は、強い。まっすぐで、鋭くて、一切の迷いがない。
——ダリアだ。
スプーンを持つ手が止まった。嬉しさと、ほんの少しの緊張が同時に込み上げてくる。
ダリアが帰ってきた。長女が帰ってきた。
嬉しい。もちろん嬉しい。何ヶ月も会えていなかったのだから。ただ、ダリアが帰ってくるということは——あれが始まるということでもある。
マギーも気づいたらしく、目を輝かせた。
「御母上様! ダリア姉さまが!」
「ええ。出迎えましょう」
玄関を開けると、森の小道を一頭の馬が進んでくるのが見えた。
馬上の人影が、木漏れ日の中で輝いている。騎士団の白い軍装。腰に佩いた長剣。風になびく黒髪。
ダリア。十九歳。リリアーナの最初の娘。
馬を降りる動作一つにも隙がない。手綱を結び、鞍を整え、軍装の埃を払い、それから——まっすぐにリリアーナの前に立った。
「ただいま戻りました、お母様。しばらく休暇をいただきましたので、その間はこちらで過ごします」
背筋の伸びた、完璧な礼。騎士としての所作が体に染みついている。声も姿勢も凛としていて、王国騎士団のエースという肩書きに恥じない佇まいだった。
リリアーナは一歩前に出て、ダリアを抱きしめた。
「おかえりなさい、ダリア」
腕を回して気づく。見上げなければ、ダリアの顔が見えない。いつの間にこんなに背が伸びたのだろう。小さい頃は抱き上げて頬ずりできたのに、今は抱きしめるだけで精一杯だ。
ダリアの体が、一瞬だけ力を抜いた。目を閉じて、母の肩に額を預けて——すぐに姿勢を戻した。騎士の顔に切り替わるまで、二秒。
その二秒を、リリアーナは見逃さなかった。
この子はいつもそうだ。甘えたい気持ちを、二秒で仕舞い込む。昔からそうだった。
「お母様」
ダリアが一歩引いて、リリアーナの顔をまじまじと見た。
あ、とリリアーナは思った。しまった。
「……お母様。お顔にインクがついています」
「洗ったんだけど、落ちなかったみたいで……」
「落ちなかった、ではありません。落としてください」
ダリアの声が、半音低くなった。
「また徹夜ですか」
「えーっと……」
「お母様」
「……はい」
母親のはずなのに、娘に叱られている。リリアーナの日常だった。
ダリアの目が、顔のインク跡から首元に移り、服の皺を確認し、手指の荒れ具合を検分している。騎士団で部下の装備を点検する時と同じ目つきだ。点検対象が剣ではなく母親というだけで。
「食事は」
「さっき食べたわ。マギーが作ってくれて」
「さっき、というのは何時ですか」
「……お昼頃」
「昨夜の食事は」
「……」
「お母様」
「……食べてないかもしれない」
ダリアが目を閉じた。深く、長い息を吐いた。
怒っている、というのとは少し違う。呆れているのでもない。心配しているのだ。心配が行きすぎて、圧になっている。
「お母様。私が不在の間、どなたがお母様の健康管理をなさっていたんですか」
「マギーが頑張ってくれてるわよ?」
「マギーはお母様を神として崇拝しているので、客観的な判断ができません」
否定できなかった。
ダリアが鞄から紙束を取り出した。表紙に『帰省期間中における母上の健康管理及び安全管理に関する計画書』と書かれている。
計画書だった。リリアーナの一日のスケジュールを予測し、食事の時間、就寝の時間、研究の時間、外出時の護衛配置まで細かく記された、完璧な計画書。
「休暇中、こちらの計画に沿って生活していただきます」
リリアーナは計画書をぱらぱらとめくった。
六時起床。七時朝食。九時から十二時まで研究。十二時昼食。十三時から自由時間。十八時夕食。二十二時就寝。研究塔の利用は一日三時間まで。夜間の研究は禁止。外出時は必ずダリアが同行。
息が詰まりそうな完璧さだった。
嬉しいのだ。ダリアが心配してくれていることは。遠い騎士団の駐屯地で、母のことを考えてこの計画書を作ったのだと思うと、胸が温かくなる。
ただ——二十二時就寝は厳しい。万象循環理論の第七章が佳境なのだ。
「ダリア、これ、研究時間が少し……」
「三時間あれば十分です」
「でも、今ちょうど面白いところで……」
「お母様。『面白いところ』は私が物心ついた頃からずっと続いています」
反論できなかった。事実だった。
マギーが横からそっと手を挙げた。
「私は賛成です。御母上様の健康管理は聖務ですので」
「マギー……」
多数決を取るまでもなかった。カミリアが帰ってくれば三対一。リリアーナに勝ち目はない。
万象の魔女は、国を滅ぼせるが、娘の過保護には勝てない。
リリアーナは計画書を閉じて、小さくため息をついた。
「……わかったわ。ダリアに従います」
「ありがとうございます、お母様」
ダリアがわずかに表情を緩めた。
笑顔ではない。でも、安堵の色が目元に滲んでいる。この子はこういう顔をする時、口元ではなく目元に出る。昔からそうだった。
リリアーナは、その目元を見て思った。
この子は帰ってくるたびに、少し大人びた顔になる。騎士の顔になる。
でも母の前でだけ見せる、この目元の柔らかさは——変わらない。
大変な子だ。本当に大変な子。
でも、おかえりなさい。
「さ、ダリア。お昼ご飯食べた? マギーのスープがあるわよ」
「いただきます。……ですが、お母様がまず完食してください」
「あら、まだ残ってたかしら」
「スープ皿の中身が半分です」
食事の量まで見られている。
花籠の館に、過保護の嵐が帰ってきた。




