第2話『万象の魔女、インクまみれで起床する』
目が覚めたら、研究塔の机に突っ伏していた。
頬にインクがついている。万象循環理論の解析ノートに顔を押しつけて眠っていたらしい。ぺりっと剥がすと、数式が頬に転写されていた。鏡がなくてもわかる。たぶん、ひどい顔だ。
いつ眠ったのか、記憶がない。「あと少しだけ」と思って第七章を読み始めて、式の展開に没頭して、そこから先が途切れている。
それはいい。いつものことだ。
問題は、机の上に置かれた手紙だった。
二枚ある。
一枚目。ピンクの付箋。丸っこい字。
『ママ、お昼ごはん冷蔵庫にあるからね。あと今日は膝あけといて。論文の話聞いてほしいの。——カミリア』
次女の手紙だった。膝を予約するな。予約制なのか、私の膝は。
二枚目。羊皮紙。金箔の装飾つき。巻物になっている。
『御母上様へ。聖典第九章が完成いたしました。御確認のほど、よろしくお願い申し上げます。なお、朝食には聖なるスープをご用意しております。本日の御母上様の活動スコアは、起床時点でマイナスです。昨日の食事回数:一回(減点)。就寝時間:不明(大幅減点)。——マーガレット』
三女の手紙だった。活動スコア。起床時点でマイナス。食事回数が一回で減点。就寝時間が不明で大幅減点。いつから採点制になったのか、私の生活は。
さらに言えば、王都にいる長女ダリアからは先日こんな手紙が届いている。
『お母様へ。帰省までの間、マギーに食事と就寝の記録を依頼しました。私が戻り次第、記録を確認した上で生活改善計画書を策定します。お体にはくれぐれもお気をつけください。——ダリア』
騎士団の命令書のような文面だった。「生活改善計画書を策定します」。帰ってくる前から宣戦布告されている。
二人の娘と、不在の長女。三方向からの包囲網。
世間は私を《万象の魔女》と呼ぶ。あらゆる魔法体系を統べる、世界最強の魔導師。
その世界最強は、今朝も娘に生活を管理されている。
……こんなに愛されるはずじゃなかったのに。
窓の外を見た。庭の花畑が朝日に——いや、太陽の位置が高い。朝というには明るすぎる。
どう見てもお昼だった。マギーの活動スコアはさらに下がるだろう。
がたん、と階下で音がした。
足音。軽くて速い足音が、研究塔の螺旋階段を駆け上がってくる。
規則正しくて、でも少し前のめりで、一段飛ばし。この足音を、リリアーナは知っている。
扉が勢いよく開いた。
「御母上様!」
マーガレット——マギーが、息を切らして立っていた。十五歳。リリアーナの三番目の娘。亜麻色の髪を後ろで束ねて、エプロンをつけている。手にはお盆。お盆の上には湯気の立つスープと、焼きたてのパンが載っている。
そしてその目は、怒っていた。信仰対象に向ける目ではなく、食事を抜いた母親に向ける目だった。
「朝食を召し上がっていません!」
「ごめんなさい、マギー。つい夢中になっちゃって……」
「『つい』で済む問題ではございません!」
マギーがずかずかと部屋に入ってきて、机の上の魔導書とノートを手際よく端に寄せ、空いたスペースにお盆を置いた。
「御母上様の御身体は聖体です。聖体に栄養を与えることは、信仰の根幹です」
聖体と言われても困る。リリアーナはただの人間で、ただの母親だ。
しかしマギーにとって、母の健康管理は宗教的義務らしい。この子は本気で、リリアーナを神だと思っている。聖典まで書いている。もう七章を超えたと聞いた。
「食事は生命維持の基本です。魔力の源です。御母上様が倒れたら、この世界はどうなりますか」
大袈裟な子だ。世界はリリアーナがいなくても回る。少なくとも、本人はそう思っている。
しかし反論しても無駄だということは、十五年の経験で学んでいた。
「……ありがとう、マギー。いただきます」
スープをひと口すする。かぼちゃのポタージュ。濃厚で、ほんの少し甘くて、体の芯まで染みていく。
美味しい。マギーは料理が上手になった。小さい頃は目玉焼きも焦がしていたのに、いつの間にかこんなものが作れるようになっていた。
「お味はいかがですか、御母上様」
「とっても美味しいわ。マギーの作るスープは世界一ね」
マギーの目が輝いた。両手を胸の前で握り、恍惚とした表情になる。
「御母上様からの御言葉……! 聖典第九章に記録いたします。『マギーのスープは世界一——御母上様・研究塔の昼食にて』」
普通にスープを褒めただけなのに、聖典に載るらしい。この家では、うかつに何かを褒めると全部記録される。
「マギー、聖典に何でもかんでも書かなくていいのよ?」
「御母上様の全ての御言葉には聖なる価値がございます」
リリアーナはパンをちぎりながら、小さくため息をついた。
マギー。末っ子で、付与魔法の天才で、リリアーナのことを神だと崇拝している娘。
どこでこうなったのか。普通に育てたつもりだった。
——いや、「普通に」の基準がそもそも間違っていたのかもしれない。拾って最初にしたことが、付与魔法の基礎理論を読み聞かせることだった。子守唄の代わりに詠唱の練習をさせた。あれは子守唄のつもりだったのだ。詠唱のリズムが心地いいかと思って。
「御母上様。スープが冷めます」
「あ、ごめんなさい」
食べる。食べながら、ぼんやり考える。
マギーの崇拝は、本人は大真面目だが、母としてはもう少し普通の親子関係に戻したい。ただの母と娘でいたいだけなのだが。
「マギー」
「はい、御母上様」
「今日のお昼ご飯、一緒に作りましょうか。マギーに教わりたいお料理があるの」
嘘だった。教わりたい料理なんてない。ただ、一緒に台所に立ちたいだけだ。
神と信者ではなく、母と娘として。
マギーが、ぱっと顔を輝かせた。
崇拝者の顔ではなかった。母に「一緒にやろう」と言われた、十五歳の女の子の顔だった。
「はい! 御母上様! 本日のメニューは聖なるシチューを——」
「普通のシチューでいいわよ」
「聖なるシチューは普通のシチューです。御母上様が作ればすべて聖なるものに——」
「マギー」
「……はい。普通のシチューですね」
リリアーナは笑った。
大変な子だけど。手のかかる子だけど。この子の笑顔を見ると、何でも許せてしまう。
スープを飲み干して、パンの最後のひとかけを口に入れた。
窓の外では、秋の陽射しが庭の花畑を照らしている。
今日はいい天気だ。研究の続きをしたいところだが、まずは——
「御母上様。研究の前にお顔を洗ってください。インクがついています」
「あら」
頬に触れた。指先が青くなった。魔導書に顔をつけて寝ていたのだから、当然だ。
「……右の頬だけ?」
「左も少し。あと、おでこにも」
研究塔の隅にある小さな鏡を覗いた。
顔の右半分がインクで青く染まっている。おでこには、ノートに書いた式の一部が反転して転写されていた。三十七歳の大魔導師というよりも、絵の具で遊んだ子供みたいな顔だった。
「…………」
「御母上様」
「……見なかったことにして?」
「記録済みです」
マギーの手には小さなメモ帳。聖典の取材ノートだ。
「今消して」
「御母上様のお姿は全て記録に値します」
「マギー」
「……表には出しません」
リリアーナは深くため息をついた。
《万象の魔女》。世界最強の魔導師。
その日は、インクまみれの顔を末娘に記録されることから始まった。




