第1話『あの日、私は母になった』
森の奥に、泣き声が聞こえた。
夜だった。月明かりが木々の隙間から零れ落ちて、落ち葉の絨毯を銀色に染めている。風はない。虫の声もない。世界が静まり返った秋の夜に、その声だけが響いていた。
か細くて、必死で、今にも途切れそうな声。
十七歳のリリアーナは足を止めた。
街外れの古書店で手に入れた魔導書を胸に抱えて、森の中の小さな家へ帰る途中だった。まだ「花籠の館」なんて洒落た名前はついていない、ただの古い一軒家。窓の立て付けが悪くて、冬になると隙間風が吹き込む。雨漏りだってする。
でも、リリアーナにはそれで十分だった。人里から離れた場所で、誰にも邪魔されずに魔法の研究ができる。食事を忘れても、三日間眠らなくても、誰にも怒られない。
——だって、私には魔法しかないもの。
友達も、家族も、いない。師匠はもういない。残ったのは、この手に宿る魔力と、読みかけの魔導書の山だけ。
それで満足していた。それだけでよかった。
泣き声が、また聞こえた。
道のすぐ脇。茂みの奥。
月明かりに照らされて、小さな布の塊がある。
リリアーナは茂みをかき分けた。
赤ん坊だった。
薄い布にくるまれて、落ち葉の上に置かれている。顔を真っ赤にして、小さな拳を握りしめて、声の限り泣いている。体が震えている。夜風に晒されて、ずっと泣き続けていたのだろう。
周囲に人の気配はない。誰かが、ここに置いていったのだ。
——捨てたのだ。
リリアーナは立ち尽くした。
どうしよう。
私は魔法しか知らない。料理もろくにできない。洗濯だって、研究に夢中になると三日分溜めてしまう。自分の食事すら忘れる人間が、赤ん坊の世話なんてできるわけがない。
街に届けるべきだ。然るべき人に預けるべきだ。教会か、孤児院か、とにかく子供の扱いを知っている人のところへ。
それが正しい判断。合理的な判断。
私みたいな人間が抱え込むべきじゃない。
赤ん坊が、ひときわ大きな声で泣いた。
小さな手が、空を掴もうとしている。何もない空を。誰もいない夜空を。
——誰かに触れたくて、でも誰もいなくて。
リリアーナの胸が、きゅっと痛んだ。
知っている。その気持ちを、知っている。
師匠が死んだ日の夜。一人きりの部屋で、天井に向かって手を伸ばした自分を。
あの時、誰かがこの手を握ってくれていたら——なんて、思ったことがある。
……駄目だ。
正しい判断なんか、知らない。合理的な判断なんか、今はいらない。
リリアーナはしゃがみこんで、赤ん坊を抱き上げた。
布ごと。落ち葉がはらはらと散る。
小さい。信じられないほど小さい。こんなに小さいのに、こんなに必死に泣いている。
こんなに小さいのに、こんなに——温かい。
抱き上げた瞬間、泣き声がぴたりと止んだ。
赤ん坊がリリアーナの胸に顔を押しつけて、小さく、ふう、と息をついた。
リリアーナの心臓が跳ねた。
嘘でしょう。泣き止んだの。
なんで。私、何もしてないわよ? ただ抱いただけ。
ミルクもない、毛布もない、暖炉もない。ただの——私の腕しかないのに。
赤ん坊の目が、うっすらと開いた。
月明かりの中で、小さな瞳がリリアーナを見上げている。
何も知らない目。何も疑っていない目。ただ、温かい場所を見つけた、というだけの、安心しきった目。
——ああ。
この子には、私が必要だ。
いや、違う。きっとこの子は、誰の腕でも泣き止んだだろう。温かければ、安心できれば、それでよかったはずだ。
でも——今ここにいるのは、私だけだ。
この森に。この夜に。この子のそばに。
だったら、もう迷う理由なんてない。
リリアーナは赤ん坊を抱き直した。しっかりと。落とさないように。壊さないように。
ぎこちない手つきだった。赤ん坊の抱き方なんて知らない。でも、この腕にある温もりだけは、絶対に手放さない。
歩き出した。古い一軒家に向かって。
庭先に、一輪の花が咲いていた。
秋の夜の闇の中で、月明かりを浴びて静かに揺れている。大きくて、堂々として、鮮やかな花。
ダリア。
「——あなたの名前は、ダリアよ」
赤ん坊が、リリアーナの胸の中で小さく身じろぎした。まるで返事をするように。
リリアーナは笑った。
少し、泣きそうだった。
これが、私が母になった夜のこと。
◇
——それから二十年。
あの子は立派に育った。
美人で、天才で、剣術の達人で、騎士団のエースで。
王国中の人間が彼女を頼り、恐れ、敬っている。
そして——重度のマザコンになった。
次に拾った子も、その次に拾った子も、みんな美人で、みんな天才で。
そして、みんな、重度のマザコンになった。
……こんなに愛されるはずじゃなかったのに。
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