第46話『枕と靴下と活動記録と煮込み』
花籠の館に、新しい日常が定着していた。
ダリアは毎朝、駐屯地に通っている。
徒歩一時間。朝日を浴びながら森の小道を歩く。以前は王都までの馬車の中で剣の手入れをしていたが、今は歩きながら花畑のことを考えている。今朝の水やりは済んだか。マギーに頼んであるから大丈夫だろう。
駐屯地に着くと、部下たちが敬礼する。地方の駐屯地は小規模だが、ダリアの赴任以来、練度が格段に上がった。騎士団のエースが直接指導するのだ。当然だ。
「隊長。本日の訓練メニューは」
「通常の剣術訓練の後に、新しい科目を追加する」
「新しい科目?」
「柔らかさの訓練だ」
部下たちが顔を見合わせた。
「枕を用意しろ。赤ん坊を抱く練習をする。騎士は守ることが仕事だが、守る対象は敵だけではない。民間人の赤ん坊を安全に抱き上げる技術は——必要だ」
部下たちは困惑したが、隊長の命令には従う。翌日から、駐屯地の庭で騎士たちが枕を抱えて立つ光景が見られるようになった。近隣の住民が不思議そうに眺めていたが、ダリアは気にしなかった。
夕方。ダリアは花籠の館に帰る。
玄関を開けた瞬間、アイリスの泣き声が聞こえた。光の玉が三つ浮かんでいた。マギーがぽふぽふと消していた。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさい、ダリア」
リリアーナがアイリスを抱いている。笑顔。今日もご飯を食べたらしい。マギーのスープが冷蔵庫に残っていた形跡がある。
ダリアはアイリスを受け取った。柔らかく。力を預けて。
アイリスが——泣き止んだ。ダリアの腕の中で、きょとんとした顔をして、それから——笑った。
ダリアの耳が赤くなった。誰にも見せない顔で、小さく微笑んだ。
***
カミリアは学院で、変わらず「氷の才媛」をやっている。
論文の発表は相変わらず完璧。教授たちの評価は上がり続けている。同級生のノエルには「最近、少し雰囲気が柔らかくなったね」と言われた。「気のせいよ」と返した。気のせいではない。
鞄の中に、赤ん坊の靴下が一足入っている。
アイリスの靴下。洗濯して畳んだ時に、あまりに小さかったので、つい鞄に入れてしまった。お守りのようなものだ。学院の講義中、疲れた時にそっと鞄の中に手を入れて、靴下に触れる。小さい。柔らかい。
誰にも見つかっていない。見つかったら、氷の才媛の評判は終わる。
帰宅すると、まず揺り籠を覗く。アイリスが起きている。目が合う。笑う。
カミリアも笑う。外面が消える。
「……ただいま、アイリス」
それからリリアーナの膝に向かう。なでなで。脱力。
手順は変わらない。ただ——一工程増えた。最初にアイリスの顔を見る工程。
帰宅して最初に見るのが母の膝ではなく妹の顔になったことに、カミリア自身はまだ気づいていない。
***
マギーは活動記録の達人になっていた。
毎日欠かさず記録する。召喚の回数、種類、処理時間。護符の消耗率。アイリスの体重の変化。ミルクの消費量。リリアーナの食事の回数(これが一番重要な項目だ)。
ある日の記録。
『本日の召喚:三件(精霊獣×二、光の玉×十二)。処理時間合計:四十七秒。護符消耗:一枚。アイリスの体重:微増(成長中)。御母上様の食事:三回(完食)。カレン姉さまの差し入れ:煮込み料理。特記事項:なし』
特記事項なし。平和な一日だ。
翌日の記録。
『本日の召喚:ゼロ件。処理時間:なし。護符消耗:なし。特記事項:★召喚ゼロの日★ 花籠の館始まって以来の快挙。アイリスは一日中きょとんとしていた。御母上様は「あら、今日は静かね」と仰った。静かであることが特記事項になるこの家は、やはり普通ではない』
マギーは嬉しそうにこの記録を書いた。召喚ゼロ。初めてだ。アイリスが来てから初めて、何も出なかった日。
護符の改良が効いているのかもしれない。マギーの技術が上がったのかもしれない。あるいは単に、アイリスの機嫌が良かっただけかもしれない。
理由はどうあれ——嬉しかった。お姉ちゃんとして。
***
カレンは小屋で夕飯の仕込みをしていた。
今日は来る日だ。週に三回。いつの間にか回数が増えていた。以前は週に一、二回だったのに。
理由は——まあ、いくつかある。アイリスが来て人数が増えた。リリアーナの食事管理が必要だ。マギーの料理はスープしか作れない。ダリアは任務で帰りが遅い日がある。カミリアは学院で忙しい。
誰かが作らないと、リリアーナは食べない。
鍋に食材を入れながら、カレンは人数を数えていた。
リリアーナ。ダリア。カミリア。マギー。アイリスのミルク。そして自分。
「……六人分か」
六人分。いつの間にか六人分になっている。
最初にリリアーナの家に来た時は二人分だった。リリアーナと、十歳のカレン。師匠に置いていかれた子供と、何でも拾う魔女。
それが三人になり、四人になり、五人になり——今は六人だ。
面倒だ。面倒だが——鍋は大きいほうが美味しい。
「……しょうがないですね」
誰もいない小屋で呟いた。口癖。いつもの口癖。
でも最近、この言葉を言う時に——少しだけ、笑ってしまう自分がいることに気づいている。
鍋の蓋を閉めた。煮込みは一時間。その間に花籠の館に行って、リリアーナがちゃんとお昼を食べたか確認しよう。マギーが監視しているはずだが、念のため。
小屋を出た。森の小道を歩く。花籠の館の屋根が木々の間に見える。
煙突から煙が出ている。暖炉をつけたらしい。秋が深まってきた。
温かい場所が、待っている。




