第45話『今日も花籠の館は平和です(※召喚を含む)』
花籠の館の朝は、カオスで始まる。
午前六時。アイリスが泣いた。
お腹が空いたのだ。赤ん坊は空腹を待てない。火がついたように泣く。顔を真っ赤にして、小さな拳を握りしめて。
居間の床に魔法陣が展開した。青い毛並みの精霊獣が、ぽんっと出現した。きょとんとした顔で居間を見回している。
ダリアが二階から駆け下りてきた。パジャマ姿。寝癖がある。しかし剣は握っている。寝る時も枕元に置いているらしい。
一秒で精霊獣の前に立ち、剣の腹で押し戻し、窓を開けて外に追い出した。斬らなかった。最近は斬らなくなった。「殺す必要はない。追い出せばいい」とリリアーナに教わってからだ。
所要時間、四秒。起床から処理完了まで。新記録だった。
「お母様、ミルクを」
「はいはい。今作ってるわ」
リリアーナがミルクを温めている。温度計は——もう使っていない。手首の内側で確認する。四人目ともなれば、手の感覚だけでわかる。
アイリスにミルクを与えた。泣き止んだ。魔法陣が消えた。
午前六時半。カミリアが降りてきた。
パジャマ。寝癖。目は半分閉じている。覚醒率三割。
「……ママぁ。なでなでぇ」
いつもの朝の儀式——の前に、揺り籠を覗いた。アイリスが起きている。ミルクを飲み終えて、きょとんとした顔をしている。
「……かわいい」
三秒見つめた。それから膝に向かった。手順が確立している。
リリアーナの膝にカミリアが倒れ込んだ。なでなで開始。アイリスは揺り籠の中からこの光景を見ている。十八歳のお姉ちゃんが母の膝で溶けている。アイリスはまだ何もわかっていないが、いつかこの光景の意味を理解する日が来るだろう。
午前六時四十五分。マギーが降りてきた。
揺り籠に直行。アイリスの顔を覗き込んだ。
「おはようございます、アイリス。お姉ちゃんですよ」
毎朝の挨拶。アイリスが名前をもらってから、マギーは毎朝名前を呼ぶ。名前を呼ぶことの意味を、マギーは誰よりも知っている。
アイリスがマギーの顔を見て——笑った。
居間の空気が震えた。魔法陣が展開した。今度は——大きかった。
光の中から出てきたのは、鷹ほどの大きさの鳥だった。全身が赤い。翼を広げると居間の半分を占める。
グリフォンの幼体。先日に続いて二回目だ。
「——対策部隊、展開!」
ダリアの号令。朝食の準備をしていた手を止め、剣を構えた。
カミリアが膝から跳ね起きた。覚醒率が一瞬で十割に到達。防壁を張る。居間と廊下の間に透明な壁が出現した。
マギーが護符を三枚投げた。グリフォンの動きを鈍らせる拘束術。羽ばたきが弱まる。
リリアーナはアイリスを抱き上げた。左腕に赤ん坊。右手を上げた。
「万象よ、鎮まりなさい」
穏やかな声。母親が子供を叱る声と同じ温度。
透明な球体がグリフォンに触れた。暴れていた翼が止まり、体が光に包まれて、すうっと消えた。
静寂。
所要時間、十二秒。対策部隊、本日一回目の出動完了。
「……朝からグリフォンか」
玄関にカレンが立っていた。朝食の差し入れを持ってきたらしい。今日は来る日だったのだ。手にはパンの入った袋。袋を持ったまま固まっている。
「おはよう、カレン」
「おはようございます、リリィ。朝からお忙しいようで」
「あらあら。いつものことよ」
いつものこと。グリフォンが出るのがいつものこと。この家の日常の基準が、一般家庭とは大幅にずれている。
午前七時。カミリアが氷の才媛に変身した。三十分の膝枕の後、三秒で切り替え。
「行ってまいります、お母様」
涼しい声。完璧な姿勢。三十分前に膝で溶けていた人間と同一人物には見えない。
曲がり角で振り返った。リリアーナが手を振った。アイリスの手も——リリアーナが持ち上げて——振らせた。カミリアの口元が緩んだ。
見えなかったことにする。
午前八時。ダリアが出発した。近くの駐屯地。異動の申請は承認された。徒歩一時間の距離。毎日帰ってこられる。
「行ってまいります、お母様。夕方には戻ります」
「いってらっしゃい、ダリア。気をつけてね」
「お母様こそ、お昼ご飯を忘れないでください」
「……善処します」
「善処ではなく確実に食べてください」
ダリアが出ていった。騎士の背中。でも門の前で一度振り返って、リリアーナとアイリスを確認してから歩き出した。
午前九時。リリアーナが研究塔に向かおうとした。万象循環理論の第七章。今日こそ突破できそうな予感がある。
「御母上様。お昼の担当は私です。研究塔の鍵は三時間後に施錠します」
「はい、マギー」
マギーが活動記録を開いた。
「本日の記録。午前六時、アイリス空腹による召喚一件、精霊獣、ダリア姉さまが四秒で処理。午前六時四十五分、アイリス笑顔による召喚一件、グリフォン幼体、対策部隊出動、十二秒で鎮圧。最終兵器使用。カミリア姉さまの膝枕は三十分。カレン姉さまの差し入れはパン」
全部記録されている。花籠の館の日常が、マギーの几帳面な字で刻まれている。
聖典ではない。活動記録だ。家族の記録。
「……マギー。最後の一行、追加して」
「何でしょうか」
「今日も花籠の館は平和です、って」
マギーが微笑んだ。
「……はい。追加します」
ペンを走らせた。
『今日も花籠の館は平和です。なお、平和の定義には召喚獣の出動を含みます』
リリアーナは笑った。
アイリスが腕の中で、ふあ、とあくびをした。眠くなったらしい。光の玉がぽうっと一つ浮かんだ。
「還りなさい、小さな光」
囁いた。子守唄のように。光の玉がふわりと消えた。
カレンが台所でパンを温めている。マギーが揺り籠の横で活動記録を書いている。窓の外では秋の風が花畑を揺らしている。五つの花が揺れている。
花籠の館の朝は、今日もカオスだ。
でも——温かい。




