第44話『花籠の館は、花がいっぱいだ』
アイリスの花の苗は、カレンが持ってきた。
「昨日、街の花屋で買っておきました」
全員が振り向いた。カレンは腕を組んだまま、視線を逸らしている。
「……リリィがそろそろ名前をつけるだろうと思ったので。花の名前にするのはわかってたし。夏の花で、虹に関係する花って言ったら——まあ、アイリスだろうなと」
読まれていた。名前も、タイミングも。十年の付き合いが、リリアーナの行動を正確に予測していた。
「カレン。あなた、いつ買ったの」
「三日前です。リリィが眠ってる間に」
カレンが三日間の寝ずの番をしていた間に、街で苗を買ってきていた。夜は揺り籠の横で寝ず、昼は街に出て花を探していた。いつ寝ていたのか。
「カレン……あなたのほうが寝不足じゃない?」
「しょうがないでしょう。リリィが寝てる間に準備しないと、いつまで経っても花が植わらない」
ため息。でも目が笑っている。
カレンが差し出した鉢植えの中に、小さなアイリスの苗があった。まだ花は咲いていない。葉が数枚、細く伸びているだけ。これから育つ。これから咲く。この庭で。この家族の中で。
「さあ。植えましょう」
リリアーナが花畑の空いた一角の前に立った。柔らかい土。ここをずっと耕していた場所。
ダリアが一歩前に出た。
「穴を掘ります」
騎士の手で、土を掘った。剣ではなく、素手で。スコップはあったが使わなかった。自分の手で掘りたかったのだろう。
赤ん坊を抱く練習で柔らかくなった手が、土を丁寧にすくい取っていく。深すぎず、浅すぎず、苗がちょうど収まる穴を作った。
「……できました」
汗を拭って、立ち上がった。手が土だらけだ。騎士の白い手袋は外している。花のために素手になった騎士。
カミリアが鉢植えから苗を取り出した。
「私が植える」
慎重に、丁寧に。根を傷つけないように。術式を組む時と同じ精密さで、苗を穴に置いた。茎を支えて、根の向きを整えて。
「……ママ。この子、まだ小さいね」
「これから大きくなるわよ。みんなと一緒にね」
カミリアが微笑んだ。外面のない笑顔。赤ん坊の前で崩壊する時の顔に似ているが、もっと穏やかだった。
マギーが進み出た。手に護符を持っている。小さな護符。赤ん坊のために作った、あの優しい護符と同じ紋様だ。
「祝福を」
護符を苗の根元に埋めた。淡い光が一瞬だけ灯って、消えた。
「強すぎない護符です。花を守る、優しい護符」
十二枚ではなく、一枚だけ。最初は力加減がわからなかった子が、今は「一枚で十分」を知っている。
「……御母上様。この護符は、聖典に記録してもいいですか」
「いいわよ。今日だけは」
マギーが破顔した。活動記録——いや、今日は聖典に書く。特別な日だから。
カレンがじょうろを持ってきた。いつの間にか井戸から水を汲んでいた。
「水」
一言だった。カレンらしい。余計なことは言わない。ただ、必要なことをやる。
じょうろを傾けて、苗の根元に水をやった。土が水を吸い込んでいく。苗の葉がかすかに揺れた。
四人が、それぞれの仕事を終えた。
穴を掘って。苗を置いて。護符を埋めて。水をやって。
リリアーナは——アイリスを抱いて、見守っていた。
何もしていない。今回は、何もしていない。
穴を掘ったのはダリア。苗を植えたのはカミリア。祝福したのはマギー。水をやったのはカレン。
リリアーナは、赤ん坊を抱いて立っていただけだ。
いつもは全部、自分でやっていた。花畑の手入れも、水やりも、霜除けも。二十年間、一人で。
今日は——任せた。みんなに。
「一人で抱え込まない」と昨夜言った。花を植えることすら、任せてみた。
そしたら——ちゃんと植わった。自分がやらなくても、ちゃんと植わった。
少しだけ、寂しかった。
自分がやらなくても大丈夫だということが。必要とされなくなることが。
でも——それ以上に、嬉しかった。この子たちが、自分たちの手で花を植えてくれたことが。
「……ありがとう、みんな」
小さく言った。
アイリスが、腕の中で手を伸ばした。
花畑の方向に。新しく植えられた苗の方向に。
小さな手から、淡い魔力が溢れた。
苗に触れた——わけではない。距離がある。でも、魔力が届いた。赤ん坊の純粋な魔力が、まっすぐに苗に向かった。
苗の葉が、光った。
淡い、虹色の光。アイリスの名前の通り。
あの夜と同じだった。庭で赤ん坊の魔力が花に触れた時と同じ光。壊すための力ではない。触れて、応えて、繋がる力。
でも今日は、少しだけ違った。光が——他の花にも広がった。
百合が光った。ダリアが光った。椿が光った。マーガレットが光った。
五つの花が、虹色の光に包まれた。秋の朝の庭で。朝日と光が混じって、花畑全体がきらきらと輝いている。
全員が、その光を見ていた。
ダリアが息を呑んでいた。
カミリアが口を押さえていた。
マギーが両手を合わせていた。
カレンが——腕を組んだまま、ただ、見ていた。
誰も何も言わなかった。
言葉は要らなかった。
光がゆっくりと消えていく。花畑が元の姿に戻る。でも——空気が少しだけ変わった気がした。温かくなった気がした。
アイリスが腕の中で、ふあ、とあくびをした。魔力を使って疲れたのだろう。小さな目が閉じかけている。
リリアーナはアイリスの頬にそっと触れた。
「ありがとう、アイリス」
名前を呼んだ。初めて、名前で呼んだ。
花畑を見た。五つの花。四つの季節。一人の母。
百合の隣に、ダリア。ダリアの隣に、椿。椿の隣に、マーガレット。マーガレットの隣に——新しい苗。これからアイリスの花を咲かせる、小さな緑。
「花籠の館は、花がいっぱいね」
風が吹いた。花が揺れた。全部の花が、同じ風に揺れた。
——この家は、花でいっぱいだ。




