第43話『ご飯は忘れるけど、花の水やりは忘れない』
名前をつけた後、リリアーナは帰ろうとしなかった。
花畑の前に立ったまま、花を見ている。四人が後ろで待っている。アイリスが腕の中できょとんとしている。
「ねえ、みんな。もう一つ、見せたいものがあるの」
三姉妹が顔を見合わせた。カレンだけが、かすかに目を細めた。何か察したような顔だった。
リリアーナはしゃがんだ。片手でアイリスを抱いたまま、もう片方の手で花を指した。
「この花畑、いつからあるか覚えてる?」
ダリアが少し考えた。
「……物心ついた時から、あったと思います」
カミリアも頷いた。
「庭に花があるのは、ずっと当たり前だった」
マギーが首を傾げた。
「御母上様がずっと大切にしている花畑です」
三人とも、花畑があることは知っている。リリアーナが毎日手入れしていることも。でも——なぜこの花が選ばれているのかは、知らない。
「この花畑には、五種類の花が咲いているわ」
リリアーナが一つずつ指さした。
「百合」
白い花。最初に植えた。二十年前、師匠の庭から分けてもらった株だ。この庭に一人で住み始めた時、自分の名前の花がここにあれば寂しくないと思った。
「ダリア」
赤い花。大きくて、堂々とした花。
ダリアの目が止まった。
「……ダリア」
自分の名前を呟いた。花の名前を。見慣れたはずの花を、初めて見るような目で見ている。
その目が、ゆっくりと広がった。
「この花は——ダリアを拾った年に植えたの。二十年前の秋」
ダリアの顔色が変わった。
「……お母様。まさか」
「椿」
濃い赤の花。凛として美しい冬の花。
カミリアが息を呑んだ。椿の学名はカメリア。植物学の知識がある。知っていたはずだ。目の前にあったのに——気づかなかった。
「カミリアを拾った年の冬に、植えたわ」
カミリアの目から、涙がこぼれた。声は出なかった。
「マーガレット」
白い小さな花。春の花。素朴で、可愛らしい花。
マギーの口が開いた。閉じた。また開いた。マーガレット。自分の本名。自分の花。ずっとここにあった。ずっと咲いていた。毎朝の水やり。毎日の手入れ。全部——自分のための花だった。
「マギーを拾った年の春に」
「……御母上様」
マギーの声が震えていた。
「二十年間、ずっと育てていたのよ。みんなの名前の花」
リリアーナが立ち上がった。花畑を見回した。百合、ダリア、椿、マーガレット。そして、空いた一角。
「ダリアを拾った秋に、ダリアの花を植えた。カミリアを拾った冬に、椿を植えた。マギーを拾った春に、マーガレットを植えた。みんなが大きくなるのと一緒に、花も大きくなったの」
三人が黙っていた。黙るしかなかった。
「毎朝、水をやって。雑草を抜いて。嵐の後は支柱を立てて。冬は霜除けをかけて。みんなの花が枯れないように、ずっと」
ダリアが「ダリア」の花に手を伸ばした。今度は——触れた。花弁にそっと指先を当てた。二十年間、母が育ててきた花。自分の代わりに、いつもここにあった花。
「……二十年間。毎朝?」
「毎朝よ」
「……研究で徹夜した日も?」
「徹夜した日も」
「……お母様のご飯を忘れた日も?」
「ご飯は忘れるけど、花の水やりは忘れたことがないわ」
ダリアの目から涙が溢れた。堪えなかった。堪える余裕がなかった。
カミリアが椿に触れた。冷たい花弁。冬に咲く花。母が自分のために選んだ花。
「……ママ。この花、いつも綺麗だなって思ってた。冬でも枯れないから、すごいなって。……ママが、毎日守ってたからだったんだ」
マギーがマーガレットの前にしゃがんだ。
「……ずっと、聖典に御母上様の言葉を記録してきました。でも——これは記録されていませんでした。花畑のことは。御母上様が毎朝、私たちの花に水をやっていたことは」
マギーの声が震えた。
「聖典よりも古い。聖典よりも——すごいです」
マギーが泣いた。声を上げて泣いた。
そしてマギーが、はっと顔を上げた。涙の中で、何かに気づいた顔をした。
「御母上様。ダリアは秋、カミリアは冬、マーガレットは春、アイリスは夏——」
声が震える。
「花畑に——四季が、全部揃いました」
春、夏、秋、冬。四人の娘。四つの季節の花。母の百合と合わせて五つ。
花籠の館の庭に、全ての季節が咲く。
三人が同時に動いた。
ダリアが右から。カミリアが左から。マギーが正面から。三方向から、リリアーナに抱きついた。
「お母様——」
「ママ——」
「お母さん——」
三人の体がリリアーナを包んだ。リリアーナはアイリスを胸に抱いたまま、三人に囲まれた。
——苦しい。
物理的に苦しかった。三人分の体重が集中している。アイリスが間に挟まっている。
アイリスが潰されそうになった。小さな口が開いた。顔が赤くなった。
泣いた。
花畑の横の地面に、淡い光が回転した。魔法陣。小さな精霊獣が、ぽんっと出現した。きょとんとした顔で花畑を見回している。
「あらあらあら」
リリアーナの声が、三人の体の隙間から漏れた。
「苦しいわ。みんな重いわ。アイリスが潰れちゃう。あ、召喚獣も出ちゃった」
ダリアが飛び退いた。涙で前が見えないまま剣に手をかけた。カミリアが防壁を張ろうとして涙で詠唱が途切れた。マギーが護符を——エプロンのポケットに入っていなかった。
「……ぽふっ」
マギーが素手で精霊獣に触れた。護符なしの付与魔法。精霊獣が光に包まれて消えた。
「……護符なしでもできるようになったのね、マギー」
「……お姉ちゃんですから」
泣きながら笑っている。三人とも。涙と笑顔がぐちゃぐちゃだ。
カレンが遠くから見ていた。ため息をついた。でも——口元は、笑っていた。目も赤かった。
「……しょうがない家族ですね」
小さな声だった。温かい声だった。
アイリスが泣き止んだ。リリアーナの胸に顔を埋めて、小さくしゃくりあげている。三姉妹が「ごめんね」「ごめんなさい」「申し訳ございません」と口々に謝っている。
リリアーナは花畑を見た。
百合。ダリア。椿。マーガレット。そして——これから植える、アイリス。
五つの花。四つの季節。一人の母。
「さて」
リリアーナが振り返った。涙の跡が残る四人を見た。
「花を植えましょう。みんなで」




