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万象の魔女、子育て奮闘中!~娘は全員マザコン、4人目は召喚獣付き~  作者: 浅沼まど
第7章【 この手は、抱きしめるためにある 】

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第41話『この手は抱き締める為に』

 夜。


 カレンに「寝ろ」と言われた夜だった。三日間の強制睡眠期間は終わったが、カレンは念を押していった。「今夜も早く寝てください。リリィの『大丈夫』は信用しません」。

 大丈夫だった。本当に大丈夫だった。体は回復している。顔色も戻った。


 でも——眠れなかった。


 体の問題ではなかった。心が、静かに騒いでいた。

 ダリアの異動。カミリアの涙。マギーの「お姉ちゃん」。カレンの三日間。返書の五つの署名。領主の手紙。使者の正論。赤ん坊の召喚。花畑の空いた一角。師匠の声。孤児院の記憶。

 全部が頭の中を巡っている。眠れるわけがなかった。


 リリアーナはベッドから起き上がった。

 階段を下りた。静かに。足音を殺して。


 居間に、揺り籠がある。今夜の担当はマギーだったが、マギーは揺り籠の横で船を漕いでいた。活動記録を書きながら眠ってしまったらしい。メモ帳を握りしめたまま、小さな寝息を立てている。

 起こさないようにしよう。マギーも疲れているのだ。お姉ちゃん業は、この子が思っている以上に体力を使う。


 リリアーナは揺り籠の横に座った。

 赤ん坊を、そっと抱き上げた。


 小さい。来た日からずっと小さいが、十日経って少しだけ重くなった気がする。気のせいかもしれない。でも——確かに、あの嵐の夜よりも、重い。

 重くなっている。育っている。この腕の中で。


 赤ん坊がむずがった。目を開けかけて——リリアーナの顔を見て、また閉じた。安心したらしい。

 この顔を知っている、と。この腕を知っている、と。


 リリアーナは赤ん坊に話しかけた。小さな声で。マギーを起こさないように。


「あなたも、大変だったわね」


 返事はない。赤ん坊はもう眠り始めている。でも、話しかけずにはいられなかった。


「寒かったでしょう。怖かったでしょう。嵐の中、一人で。誰もいなくて」


 あの夜のことを思い出す。玄関先の小さな布の塊。雨に打たれて、泣いていた。


「でも、もう大丈夫。私がいるから」


 同じ言葉だった。あの夜と同じ。ダリアを拾った夜とも同じ。二十年間、何度も繰り返してきた言葉。

 「私がいるから」。


 でも——本当にそれでいいのだろうか。


 リリアーナは自分の手を見た。

 赤ん坊を抱いている手。月明かりに照らされた、三十七歳の手。

 

 この手は、世界を壊せるらしい。

 「万象の魔女」の手。あらゆる魔法体系を統べる力。国を滅ぼせる力。大陸を揺るがす力。

 世間の人はこの手を恐れる。この手に畏敬を抱く。

 

 でも——この手がしてきたことは、何だったか。

 

 ダリアを抱き上げた。秋の夜に。月明かりの下で。泣いている赤ん坊を、この手で。

 カミリアを抱き上げた。冬の夜に。雪の降る中で。冷え切った小さな体を、この手で温めた。

 マギーを抱き上げた。春の夜に。マーガレットの花が咲く横で。泣き声を聞いて、この手が伸びた。

 カレンにお茶を淹れた。十歳の女の子に。師匠と一緒に来た、小さな魔術師に。この手で、温かいカップを渡した。

 そしてこの子を。嵐の夜に。玄関先で。この手で抱き上げた。


 全部、この手がやった。

 万象の魔法じゃない。詠唱もない。術式もない。ただ——手が伸びただけだ。


 この手は、世界を壊すためにあるんじゃない。


 この手は——誰かを抱きしめるためにある。


 リリアーナの目から、涙がこぼれた。

 泣くつもりはなかった。泣く理由もなかった。ただ——自分の手を見ていたら、涙が出た。

 

 二十年間、この手で抱きしめてきた。一人で。誰にも頼らず。自分の食事を忘れて、自分の体を壊して、それでも——この手だけは止まらなかった。


 でも——


 今は違う。


 昨日のことを思い出す。ダリアが震える手で「そばにいたい」と言ってくれたこと。カミリアが「泣いてない」と言いながら泣いてくれたこと。マギーが「お姉ちゃんとして」と胸を張ってくれたこと。カレンが「しょうがない」と言いながら三日間起きてくれたこと。


 一人じゃない。もう一人じゃない。

 この手は、もう一人で全部を抱え込まなくていい。


「……私は母だから」


 赤ん坊に囁いた。


「それ以上でも、それ以下でもない。万象の魔女でも、世界最強でも、関係ない」


 でも——それだけじゃ足りなかった。今まではそれで良かった。「母だから」で全部やってきた。

 でも今は、わかる。


「母だから、一人で全部やらなきゃいけないって——思い込んでた。ごめんなさい」


 誰に謝っているのかわからなかった。赤ん坊に。娘たちに。カレンに。師匠に。自分自身に。


「この手は、抱きしめるためにある。でも——抱きしめてもらうことも、覚えなきゃね」


 涙が一筋、頬を伝った。


 ——その時。

 ドアの向こうに、気配があった。


 一人じゃない。複数。四つの気配。


「…………」


 リリアーナが振り向いた。

 ドアが、細く開いていた。


 ダリアがいた。カミリアがいた。マギーがいた。カレンもいた。

 全員、眠れなかったのだ。全員、聞いていたのだ。


 ダリアが最初に口を開いた。小声で。


「……ママ」


 ——ママ。

 普段は「お母様」。十三歳の時に呼び方を変えてから、六年間一度も言わなかった言葉。

 この瞬間だけ、ダリアは——十九歳の騎士ではなく、母が好きな女の子に戻った。


 カミリアが鼻を啜った。


「……ママ、バカ。自分のこと何もしないくせに。一人で抱え込んで。ずるいよ」


 マギーが涙を堪えていた。


「……御母上様は、やっぱり——」


 崇拝の言葉が出かけて——止めた。飲み込んだ。代わりに、別の言葉が出てきた。


「御母上様は、やっぱり——お母さんです。私たちの、お母さん」


 神ではなく。万象の魔女でもなく。ただの、お母さん。

 マギーの口から、その言葉が出た。


 カレンが壁に寄りかかっていた。腕を組んでいる。いつもの姿勢。でも——目が赤い。


「……リリィは、しょうがない人です。本当に、しょうがない」


 声が少し震えていた。「しょうがない」が、今夜は全く違う意味を持っていた。


 リリアーナが——泣き笑いの顔で——言った。


「あらあら。みんなどうしたの? おトイレ?」


 ダリア「違います」

 カミリア「違うわよ」

 マギー「聖なる御言葉を拝聴して——いえ。お母さんの声を、聞いていました」

 カレン「……違います」


 四人がリリアーナを囲んだ。赤ん坊を抱いたまま。


 ダリアが言った。


「……この子も、守ります。お母様が拾ったなら。そして——お母様も、守ります。お母様が守らせてくれるなら」


 カミリアが言った。


「……私も。ママが決めたなら。でもママのことも、私たちに任せて」


 マギーが言った。


「花籠の館に、新たなる祝福を。——いえ。花籠の館に、もう一人の家族を」


 カレンが言った。


「……ご飯、もう一人分作ります。ついでにリリィの分も。毎日じゃないですけど」


 リリアーナの涙が止まらなかった。

 泣いている。みんなの前で。泣いているのに、笑っている。


「ありがとう。みんな」


 声が震えていた。


「私ね、ずっと——一人でやらなきゃいけないって思ってた。この子たちを拾ったのは私だから。育てるのも私の責任だから。全部、私が」


 赤ん坊が、リリアーナの胸に顔を埋めた。眠ったまま。温かい。


「でも——もう、一人で抱え込まない。みんなに、任せる。この手を——伸ばすだけじゃなくて、差し出してもらうことも、覚える」


 四人が頷いた。

 誰も何も言わなかった。言葉はもう、十分だった。


 暖炉の火が小さく揺れている。居間が、温かい。

 五人の人間と、一人の赤ん坊が、ここにいる。


 花籠の館の夜は、今夜も——温かかった。

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