第41話『この手は抱き締める為に』
夜。
カレンに「寝ろ」と言われた夜だった。三日間の強制睡眠期間は終わったが、カレンは念を押していった。「今夜も早く寝てください。リリィの『大丈夫』は信用しません」。
大丈夫だった。本当に大丈夫だった。体は回復している。顔色も戻った。
でも——眠れなかった。
体の問題ではなかった。心が、静かに騒いでいた。
ダリアの異動。カミリアの涙。マギーの「お姉ちゃん」。カレンの三日間。返書の五つの署名。領主の手紙。使者の正論。赤ん坊の召喚。花畑の空いた一角。師匠の声。孤児院の記憶。
全部が頭の中を巡っている。眠れるわけがなかった。
リリアーナはベッドから起き上がった。
階段を下りた。静かに。足音を殺して。
居間に、揺り籠がある。今夜の担当はマギーだったが、マギーは揺り籠の横で船を漕いでいた。活動記録を書きながら眠ってしまったらしい。メモ帳を握りしめたまま、小さな寝息を立てている。
起こさないようにしよう。マギーも疲れているのだ。お姉ちゃん業は、この子が思っている以上に体力を使う。
リリアーナは揺り籠の横に座った。
赤ん坊を、そっと抱き上げた。
小さい。来た日からずっと小さいが、十日経って少しだけ重くなった気がする。気のせいかもしれない。でも——確かに、あの嵐の夜よりも、重い。
重くなっている。育っている。この腕の中で。
赤ん坊がむずがった。目を開けかけて——リリアーナの顔を見て、また閉じた。安心したらしい。
この顔を知っている、と。この腕を知っている、と。
リリアーナは赤ん坊に話しかけた。小さな声で。マギーを起こさないように。
「あなたも、大変だったわね」
返事はない。赤ん坊はもう眠り始めている。でも、話しかけずにはいられなかった。
「寒かったでしょう。怖かったでしょう。嵐の中、一人で。誰もいなくて」
あの夜のことを思い出す。玄関先の小さな布の塊。雨に打たれて、泣いていた。
「でも、もう大丈夫。私がいるから」
同じ言葉だった。あの夜と同じ。ダリアを拾った夜とも同じ。二十年間、何度も繰り返してきた言葉。
「私がいるから」。
でも——本当にそれでいいのだろうか。
リリアーナは自分の手を見た。
赤ん坊を抱いている手。月明かりに照らされた、三十七歳の手。
この手は、世界を壊せるらしい。
「万象の魔女」の手。あらゆる魔法体系を統べる力。国を滅ぼせる力。大陸を揺るがす力。
世間の人はこの手を恐れる。この手に畏敬を抱く。
でも——この手がしてきたことは、何だったか。
ダリアを抱き上げた。秋の夜に。月明かりの下で。泣いている赤ん坊を、この手で。
カミリアを抱き上げた。冬の夜に。雪の降る中で。冷え切った小さな体を、この手で温めた。
マギーを抱き上げた。春の夜に。マーガレットの花が咲く横で。泣き声を聞いて、この手が伸びた。
カレンにお茶を淹れた。十歳の女の子に。師匠と一緒に来た、小さな魔術師に。この手で、温かいカップを渡した。
そしてこの子を。嵐の夜に。玄関先で。この手で抱き上げた。
全部、この手がやった。
万象の魔法じゃない。詠唱もない。術式もない。ただ——手が伸びただけだ。
この手は、世界を壊すためにあるんじゃない。
この手は——誰かを抱きしめるためにある。
リリアーナの目から、涙がこぼれた。
泣くつもりはなかった。泣く理由もなかった。ただ——自分の手を見ていたら、涙が出た。
二十年間、この手で抱きしめてきた。一人で。誰にも頼らず。自分の食事を忘れて、自分の体を壊して、それでも——この手だけは止まらなかった。
でも——
今は違う。
昨日のことを思い出す。ダリアが震える手で「そばにいたい」と言ってくれたこと。カミリアが「泣いてない」と言いながら泣いてくれたこと。マギーが「お姉ちゃんとして」と胸を張ってくれたこと。カレンが「しょうがない」と言いながら三日間起きてくれたこと。
一人じゃない。もう一人じゃない。
この手は、もう一人で全部を抱え込まなくていい。
「……私は母だから」
赤ん坊に囁いた。
「それ以上でも、それ以下でもない。万象の魔女でも、世界最強でも、関係ない」
でも——それだけじゃ足りなかった。今まではそれで良かった。「母だから」で全部やってきた。
でも今は、わかる。
「母だから、一人で全部やらなきゃいけないって——思い込んでた。ごめんなさい」
誰に謝っているのかわからなかった。赤ん坊に。娘たちに。カレンに。師匠に。自分自身に。
「この手は、抱きしめるためにある。でも——抱きしめてもらうことも、覚えなきゃね」
涙が一筋、頬を伝った。
——その時。
ドアの向こうに、気配があった。
一人じゃない。複数。四つの気配。
「…………」
リリアーナが振り向いた。
ドアが、細く開いていた。
ダリアがいた。カミリアがいた。マギーがいた。カレンもいた。
全員、眠れなかったのだ。全員、聞いていたのだ。
ダリアが最初に口を開いた。小声で。
「……ママ」
——ママ。
普段は「お母様」。十三歳の時に呼び方を変えてから、六年間一度も言わなかった言葉。
この瞬間だけ、ダリアは——十九歳の騎士ではなく、母が好きな女の子に戻った。
カミリアが鼻を啜った。
「……ママ、バカ。自分のこと何もしないくせに。一人で抱え込んで。ずるいよ」
マギーが涙を堪えていた。
「……御母上様は、やっぱり——」
崇拝の言葉が出かけて——止めた。飲み込んだ。代わりに、別の言葉が出てきた。
「御母上様は、やっぱり——お母さんです。私たちの、お母さん」
神ではなく。万象の魔女でもなく。ただの、お母さん。
マギーの口から、その言葉が出た。
カレンが壁に寄りかかっていた。腕を組んでいる。いつもの姿勢。でも——目が赤い。
「……リリィは、しょうがない人です。本当に、しょうがない」
声が少し震えていた。「しょうがない」が、今夜は全く違う意味を持っていた。
リリアーナが——泣き笑いの顔で——言った。
「あらあら。みんなどうしたの? おトイレ?」
ダリア「違います」
カミリア「違うわよ」
マギー「聖なる御言葉を拝聴して——いえ。お母さんの声を、聞いていました」
カレン「……違います」
四人がリリアーナを囲んだ。赤ん坊を抱いたまま。
ダリアが言った。
「……この子も、守ります。お母様が拾ったなら。そして——お母様も、守ります。お母様が守らせてくれるなら」
カミリアが言った。
「……私も。ママが決めたなら。でもママのことも、私たちに任せて」
マギーが言った。
「花籠の館に、新たなる祝福を。——いえ。花籠の館に、もう一人の家族を」
カレンが言った。
「……ご飯、もう一人分作ります。ついでにリリィの分も。毎日じゃないですけど」
リリアーナの涙が止まらなかった。
泣いている。みんなの前で。泣いているのに、笑っている。
「ありがとう。みんな」
声が震えていた。
「私ね、ずっと——一人でやらなきゃいけないって思ってた。この子たちを拾ったのは私だから。育てるのも私の責任だから。全部、私が」
赤ん坊が、リリアーナの胸に顔を埋めた。眠ったまま。温かい。
「でも——もう、一人で抱え込まない。みんなに、任せる。この手を——伸ばすだけじゃなくて、差し出してもらうことも、覚える」
四人が頷いた。
誰も何も言わなかった。言葉はもう、十分だった。
暖炉の火が小さく揺れている。居間が、温かい。
五人の人間と、一人の赤ん坊が、ここにいる。
花籠の館の夜は、今夜も——温かかった。




