第40話『この子が選んだ場所』
カレンの三日間が終わった。
三日間、リリアーナは夜通し眠った。カレンが毎晩揺り籠の横で寝ずの番をしてくれた。光の玉はカレンが消し、一度だけ出た小型の精霊獣はカレンの魔術で追い払った。居間に焦げ跡が一つできたが、マギーが護符で修復した。
三日ぶりに起きたリリアーナは、顔色が戻っていた。目の下の隈が薄くなり、指の震えも消えた。朝食のスプーンを落とさなかった。
その日の夜。
ダリアがリリアーナの部屋を訪ねてきた。
ノックは三回。均等な間隔。ダリアだ。カミリアは一回だけ弱く叩く。マギーは五回連続で「御母上様!」と声をかける。カレンはノックせずに「リリィ」と声だけかける。
二十年間で覚えた、四人のノックの個性。
「入って、ダリア」
ダリアが入ってきた。騎士の姿勢。でも表情が少し硬い。緊張している。
「お母様。お話があります」
椅子に座った。リリアーナはベッドの端に座って、ダリアを待った。
「私の休暇は、あと五日で終わります」
知っていた。わかっていた。でも——口にされると、やはり少し胸が痛んだ。
「休暇が終わったら、王都の駐屯地に戻ります。ですが——」
ダリアが一拍置いた。息を整えている。
「申請を出しました。この森を管轄する地方駐屯地への異動を」
リリアーナの目が丸くなった。
「異動? ダリアが? 王都から?」
「はい。この森から一時間ほどの距離にある駐屯地です。地方の治安維持と魔獣の対処が主な任務で——」
「駄目よ」
リリアーナが遮った。
ダリアが言葉を止めた。
「駄目。それは駄目」
穏やかな声ではなかった。いつもの「あらあら」とは違う。母親の声だった。
「ダリア。あなたは王国騎士団のエースよ。十九歳で、あの地位にいるの。それがどれだけすごいことか、あなた自身がわかっているでしょう」
ダリアが黙っている。
「地方の駐屯地に異動したら、あなたの経歴に傷がつく。出世の道が閉じる。あなたの才能を活かせる場所は王都にあるの。こんな森の中の小さな駐屯地じゃない」
「お母様——」
「聞いて、ダリア」
リリアーナの声が震えていた。怒りではない。必死さだ。
「あなたは私のために剣を選んだ。それは知ってる。八歳の夜から、ずっと知ってた。あなたが私を守るために騎士になったことを」
ダリアの目が見開かれた。母が知っていた。言わなかっただけで、ずっと知っていた。
「それだけでも申し訳ないのに——その上、異動まで。あなたの人生を、私のために狭めないで」
リリアーナの目が潤んでいた。泣いてはいない。でも、泣きそうだった。
「あなたには、あなたの人生があるの。お母さんのそばにいることだけが、ダリアの人生じゃないでしょう?」
長い沈黙が落ちた。
ダリアは黙っていた。騎士の表情は崩れていなかったが、手が——膝の上の手が、強く握りしめられていた。
「……お母様」
「何」
「理由を、最後まで聞いていただけますか」
静かな声だった。反論ではなかった。ただ、聞いてほしいという声だった。
「異動の理由は『万象の魔女の居住地域における安全保障の強化』です。公的に通る理由です。経歴に傷はつきません。地方駐屯地での実績は、将来の昇進に不利にはならない」
用意周到だった。ダリアは母が反対することを予測していたのだ。だから、反論できない理由を先に組み立てていた。騎士団で作戦を立てる人間の思考だ。
「それに——この森には召喚魔法を持つ赤ん坊がいます。対策部隊の物理処理班として、私が近くにいる必要があります。これも公的な理由になります」
正論だ。全部正論だ。だが——
「ダリア。全部もっともよ。でも、それは建前でしょう」
ダリアが目を逸らした。
「本当の理由を聞かせて」
沈黙。長い沈黙。
暖炉の火がぱちりと音を立てた。窓の外で虫が鳴いている。
「……お母様のそばに、いたいんです」
小さな声だった。騎士の声ではなかった。十九歳の女の子の声だった。
「王都にいると、お母様が心配で仕方がないんです。ちゃんと食べているか。ちゃんと寝ているか。研究塔に閉じこもって倒れていないか。カレンさんが来ない日に、誰がお母様のことを見ているのか」
声が震えていた。
「今回のことで——この子が来て——お母様がスプーンを落とした時、私は怖かった。怖かったんです。お母様がいなくなるかもしれないって」
八歳の夜と同じだった。「ママがいなくなったと思った」。あの夜の恐怖が、十一年経った今も消えていない。
「王都にいたら、間に合わない。何かあった時に、駆けつけられない。それが——耐えられないんです」
ダリアの手が震えていた。膝の上で、握りしめた拳が震えていた。
リリアーナは、娘の震える手を見た。
反対したかった。ダリアの未来を優先してほしかった。母の心配なんかしないで、自分の道を歩いてほしかった。
でも——この子の手が、震えている。この子は本気で怖いのだ。母を失うことが。
自分のせいだ、と思った。
自分がちゃんとした母親だったら。自分のご飯を忘れないような、まともな大人だったら。ダリアはこんなに心配しなくて済んだ。
この子が異動を選ぶのは、リリアーナが頼りないからだ。
でも——だからといって、ダリアの気持ちを否定していいのか。
この子が「そばにいたい」と言っている。震える手で。十九歳の全部をかけて。
それを「あなたの未来のために駄目」と言うのは——母の愛なのか、母のエゴなのか。
わからない。昨夜と同じだ。答えが出ない。
ただ——ダリアの手が震えていることだけは、事実だった。
リリアーナは手を伸ばした。ダリアの握りしめた拳を、両手で包んだ。
「……ダリア」
「……はい」
「ありがとう」
それだけ言った。賛成でも反対でもなく。ただ——ありがとう。
「あなたが私のそばにいたいと思ってくれること。それが、嬉しい。すごく嬉しい。でも、同じくらい申し訳ない」
ダリアが首を振った。
「申し訳なく思わないでください。これは——私が選んだことです。お母様のせいじゃない」
「でも——」
「お母様」
ダリアが顔を上げた。目が真っ直ぐだった。騎士の目だった。でも——その奥に、娘の目があった。
「私の人生を狭めているのは、お母様ではありません。私が選んでいるんです。お母様のそばにいることを。それが、私の人生です」
リリアーナは何も言えなかった。
この子は——こんなに真っ直ぐに、こんなに強く、母を選んでくれている。
反対する理由が、もう見つからなかった。
「……わかったわ」
声が震えた。泣きそうだった。でも泣かなかった。ここで泣いたら、ダリアが心配する。
「おかえりなさい、ダリア」
まだ異動していない。まだ王都にいる。でも——もう「おかえりなさい」を言った。
ダリアが目を閉じた。いつもの二秒——ではなく、三秒。一秒だけ長く。
「……護衛の都合です」
顔を背けた。耳が赤かった。花屋の前と同じ赤さ。
リリアーナはダリアの頭を撫でた。自分より背の高い娘の頭を。
「護衛の都合ね。わかったわ」
わかっている。全部。この子が何を捨てて、何を選んだのか。
母として、もっと強くありたかった。この子に心配をかけない、ちゃんとした母でありたかった。
でも——このまともじゃない母を、ダリアは選んでくれた。
「おやすみなさい、ダリア」
「おやすみなさい、お母様」
扉が閉まった。足音が遠ざかっていく。
規則正しくて、力強くて、でも今夜は少しだけ軽い足音。嬉しい時のダリアの足音だ。
リリアーナは窓の外を見た。月明かりの中で、ダリアの花が風に揺れている。
大きくて、堂々としていて、不器用で、真っ直ぐで。
あの花は、本当にダリアにそっくりだ。




