第39話『十年分の貸しを、今ここで』
久しぶりに朝まで眠れた翌日は、調子が良かった。
研究塔で三時間の作業もはかどった。万象循環理論の第七章に、ようやく突破口が見えた。食事もちゃんと食べた。マギーのスープとパン。自分の分を忘れなかった。ダリアに褒められた。褒められたというか、「当然です」と言われた。当然のことで褒められる三十七歳。
しかし好調は一日しか続かなかった。
翌日の夜。赤ん坊が泣いた。
ダリアの担当の夜だった。ダリアが揺り籠に駆け寄り、赤ん坊を抱き上げ、ミルクを与えた。泣き止んだ。召喚は出なかった。ダリアの対応が速くなっている。
問題なく処理された。リリアーナが起きる必要はなかった。
でも起きた。
泣き声が聞こえた瞬間、体が勝手に起き上がっていた。計画書も、交代制も、理屈も関係なく。赤ん坊が泣いている、という事実だけで、目が覚めた。
階段を下りて居間に行くと、ダリアが赤ん坊を抱いていた。もう泣いていない。
「お母様。大丈夫です。処理しました」
「……ごめんなさい。つい」
「お母様。計画書の第三条、夜間の担当者以外は——」
「わかってるわ。でも、体が勝手に」
体が勝手に動く。泣き声に反応して。二十年間、一人で夜中に起きて、一人であやしてきた体が。交代制を覚えてくれない。
その夜は結局、ダリアと一緒に赤ん坊を見守って、二時間遅れで眠った。
翌日も同じだった。カミリアの担当の夜。カミリアが完璧に処理したのに、リリアーナは泣き声で起きた。
その翌日も。マギーの担当の夜。マギーの子守唄で赤ん坊は二分で眠ったのに、リリアーナは光の玉の気配で起きた。
三日連続で寝不足が積み重なった。
四日目の朝。リリアーナは食卓でスプーンを落とした。
手から、するっと滑り落ちた。握力が足りなかった。スープを口に運ぶ動作の途中で、指が言うことを聞かなかった。
マギーが「御母上様!」と声を上げた。ダリアが立ち上がった。カミリアがリリアーナの手を取った。
「ママ。手、震えてる」
見ると、確かに指先が微かに震えていた。疲労だ。寝不足が体に出ている。魔力の制御に支障が出るほどではないが、日常動作に影響が出始めている。
「大丈夫よ。ちょっと寝不足なだけ」
「大丈夫じゃないですよ」
台所から、カレンの声がした。
カレンが入ってきた。今日は朝から来ていた。昨日の残り物を温めて、リリアーナの朝食を用意してくれていた。頼んでいないのに。
カレンの目が、リリアーナの顔を正確に捉えていた。
「リリィ。顔色、三日前より悪いです」
「そう?」
「そうです。目の下の隈が濃くなってます。唇の色も薄い。指先が震えてる。全部見えてます」
カレンの観察は正確だった。魔術師としての目だ。魔力の流れから体の状態を読み取る技術。リリアーナを十年見てきた目。
「夜中に起きてるでしょう。担当じゃない夜も」
「……」
「黙ってる時は図星です。十年の付き合いでわかります」
反論できなかった。
「リリィ。今夜は私が見ます」
「カレンが? でも、あなたは——」
「支援班でしょう。活動記録にも書いてあります。カレン、支援班。何でもやるんでしょう」
ダリアが勝手に書いた名簿が、ここで効いてきた。
「今夜は私が揺り籠の横で寝ます。泣いても笑っても寝ても、全部私が対処します。光の玉くらいなら消せます。魔獣が出たら——まあ、なんとかします」
「なんとか、って」
「リリィほど綺麗にはできませんけど、追い払うくらいはできますよ。腐っても魔術師です」
腐っても。自分で言うか。
「リリィは寝てください。命令です」
「カレンに命令される覚えは——」
「あります。十年分の貸しがあります」
十年分の貸し。食事を作った回数。洗い物をした回数。「しょうがない」と言った回数。全部の貸しを、今ここで請求されている。
「……ずるいわ、カレン」
「ずるくないです。当然の権利です」
三姉妹が黙って聞いていた。ダリアもカミリアもマギーも。
三人とも、母に「寝ろ」と言いたかった。計画書も作った。交代制も組んだ。でも母の体が勝手に起きてしまうことは、止められなかった。
カレンだけが、止められる。
三姉妹は母を「心配する」。でもカレンは母を「止める」。
娘ではないからこそできることがある。友人だからこそ言える言葉がある。
「……わかったわ」
リリアーナが折れた。
「今夜だけよ?」
「今夜と、明日の夜と、明後日の夜です。三日間。リリィの寝不足が三日分なら、取り戻すのも三日です」
「三日も?」
「三日です。交渉の余地はありません」
ダリアの計画書より厳しかった。
その夜。リリアーナはベッドに入った。
階下から、赤ん坊の寝息が微かに聞こえる。カレンが揺り籠の横にいる気配。
泣き声は聞こえない。光の玉の気配もない。カレンが処理しているのだろう。
体が起きようとした。反射で。でも——今夜は、止まった。
カレンがいる、と思ったら。止まった。
任せていい人がいる、と思ったら。体が、ようやく力を抜いた。
目を閉じた。
今夜は、眠れそうだった。




