第38話『「腹は減ってないか?」と師匠は言った』
その夜。リリアーナは眠れなかった。
赤ん坊は揺り籠で眠っている。今夜の担当はマギーだ。マギーが揺り籠の横に座って、活動記録を書きながら見守っている。光の玉が出たら、ぽふっと消す。もう慣れた作業だ。
ダリアの計画書に従えば、リリアーナは寝るべき時間だ。でも、目が冴えていた。
ベッドの上で天井を見つめている。
返書を出した。名前をそろそろ決めなければならない。花畑に植える花も選ばなければ。
でも、頭の中を巡っているのはそういう実務的なことではなかった。
師匠のことを、考えていた。
リリアーナの師匠。名前はエルダ。白髪の老女で、森の奥に一人で住んでいた魔導師だった。
リリアーナが師匠のもとに来たのは、八歳の時だ。両親はいない。物心ついた時から孤児だった。街の孤児院で育ち、魔力があることがわかって、引き取り手を探されて——エルダのところに来た。
孤児院。
領主の手紙に書かれていた場所だ。リリアーナ自身が、かつていた場所。
悪い場所ではなかった。食事は出たし、屋根もあった。職員は親切だった。
でも——温かくはなかった。
温かさと安全は違う。安全な場所はあった。温かい場所は、なかった。
大勢の子供がいて、大勢の職員がいて、でも誰もリリアーナの名前を特別に呼んではくれなかった。「リリアーナ」ではなく「あの子」「魔力のある子」「手のかかる子」。
名前を呼んでもらえないことが、こんなに寂しいとは知らなかった。
エルダは違った。
森の小屋に来た初日、エルダはリリアーナの顔をじっと見て、言った。
——リリアーナ。百合の名前だね。いい名前だ。
名前を呼んでくれた。それだけで、八歳のリリアーナは泣いた。
エルダは慌てた様子もなく、小さなリリアーナの頭を撫でて、「腹は減ってないか」と聞いた。減っていた。エルダが作った素朴なスープを飲んだ。温かかった。
それから九年間。エルダのもとで魔法を学んだ。
エルダは偏屈で、無愛想で、褒めることが極端に少ない人だった。でもリリアーナが熱を出した時は夜通し看病してくれたし、魔法が上手くいった時は不器用に「まあまあだ」と言ってくれた。エルダの「まあまあだ」は「よくやった」の最上級だと、何年もかけて学んだ。
リリアーナが十七歳の時、エルダが死んだ。
老衰だった。穏やかな死だった。最後の言葉は「あとは好きにしろ」だった。エルダらしい言葉だった。
泣いた。泣いて、泣いて、泣き尽くして。
一人になった。
エルダの小屋をリリアーナが引き継いだ。のちの花籠の館だ。
一人で住んだ。研究に没頭した。食事を忘れるようになったのは、この頃からだ。師匠がいなくなって、「腹は減ってないか」と聞いてくれる人がいなくなった。だから忘れた。
友達もいない。家族もいない。師匠はもういない。
天井に向かって手を伸ばした夜がある。誰かに握ってほしくて。でも誰もいなくて。
孤児院にいた頃と同じだった。安全な場所はある。温かい場所がない。
そしてダリアを拾った。
秋の夜。森の中。月明かりの下で泣いている赤ん坊。
あの瞬間——リリアーナは「この子には私が必要だ」と思った。あの夜。
でも今になって思う。本当にそうだったのか。
本当は——リリアーナのほうが、必要としていたのではないか。
一人で寂しかったのではないか。誰かに触れたかったのではないか。天井に向かって伸ばした手を、誰かに握ってほしかったのではないか。
ダリアを拾ったのは、ダリアのためではなく——自分のためだったのではないか。
自分が孤独だったから。自分が温かさを知らなかったから。自分が名前を呼んでもらえなかったから。
だから——名前をつけた。花の名前を。自分が呼びたかったから。自分が呼ばれたかったように。
リリアーナは天井を見つめたまま、考えていた。
カミリアも。マギーも。カレンも。そしてあの子も。
全員、リリアーナが「放っておけなかった」人たちだ。放っておけなかったから拾った。放っておけなかったから名前をつけた。放っておけなかったから育てた。
でもその「放っておけない」は——本当に、相手のためだったのか。
それとも自分の寂しさを、埋めたかっただけなのか。
わからない。
答えは出ない。二十年経っても、出ない。
ただ——一つだけ、わかることがある。
あの夜、ダリアを抱き上げた時。腕の中が温かかった。
カミリアを抱き上げた時も。マギーを抱き上げた時も。あの子を抱き上げた時も。
温かかった。
理由はわからない。自分のためか、相手のためか、わからない。
でも——温かかった。それだけは、嘘じゃない。
温かければ、それでいいのではないか。
理由なんて、なくていいのではないか。
泣いている子がいたから抱いた。それだけのことだ。
それ以上の理由は——いらない。
エルダの声が、記憶の奥で聞こえた気がした。
——腹は減ってないか。
リリアーナは小さく笑った。
減ってない。今は、減ってない。お腹じゃなくて、心が。
この家には、温もりが溢れている。自分が拾った子たちが、自分に温もりをくれている。
拾ったのか、拾われたのか。もうわからない。でも、それでいい。
目を閉じた。
明日、名前をつけよう。アイリス。虹の花。嵐の後に架かる虹。
この子にぴったりの名前だと、今ならわかる。
リリアーナは、眠った。
久しぶりに、朝まで起きなかった。




