第37話『赤ん坊の成長と三人の姉』
赤ん坊が花籠の館に来て、十日が経った。
十日。たった十日だ。しかし花籠の館の日常は、十日前とは別の形になっていた。
召喚カオスは相変わらずだ。泣けば魔獣が出る。寝れば光の玉が漏れる。笑えば何が出るかわからない。フェニックス以降、笑いのトリガーではグリフォンの幼体が出たこともある。ダリアが処理し、カミリアが防壁を張り、マギーが護符で修復する。対策部隊の連携は日を追うごとに洗練されていった。
カオスは変わらない。でも、カオスの中身が変わった。
ダリアの腕が、柔らかくなった。
枕での訓練を一週間続けた成果だ。赤ん坊を抱いても泣かなくなった。それどころか、ダリアの腕の中で目を閉じることが増えた。騎士の腕が「柔らかい場所」になった。
リリアーナが教えた「力を預ける」を、ダリアは本当に体得した。剣を振る時は力を入れ、赤ん坊を抱く時は力を預ける。二つの腕の使い方を、この十日で身につけた。
ただし、新しい問題が生まれていた。
「お母様。この子が寝てしまいました」
ダリアが困った顔で報告してくる。赤ん坊が腕の中で熟睡している。柔らかくなりすぎたのだ。心地よすぎて、ダリアの腕で眠ってしまう。眠ると——光の玉が出る。
「どうすればいいでしょうか」
「起こさないように揺り籠に移せばいいわよ」
「それが……動こうとすると、この子が私の服を掴んで離さないんです」
赤ん坊がダリアの騎士服の襟を、小さな手でぎゅっと握っている。眠りながら。放すと泣きそうな気配がある。泣けば召喚が始まる。
ダリアは赤ん坊を抱いたまま、身動きが取れなくなっていた。騎士団のエースが、赤ん坊に拘束されている。
「……お母様。私は何時間このままでいればいいですか」
「この子が起きるまで」
「……了解しました」
ダリアが諦めた顔で椅子に座った。赤ん坊を抱いたまま、微動だにしない。護衛任務と同じ姿勢で、赤ん坊が目を覚ますまで待機する覚悟を決めたらしい。
光の玉がぽうっと一つ浮かんだ。ダリアの目がそちらに向いた。片手で捕まえようとして——赤ん坊を落としそうになって——やめた。
「マギー、頼む」
「はい、ダリア姉さま」
マギーがぽふっと消した。姉妹の連携も、十日で進化していた。
カミリアは、変わった。
帰宅後の儀式に、赤ん坊が加わった。以前は「ママの膝→なでなで→脱力」だったが、今は「赤ん坊を見る→かわいい→ママの膝→なでなで→脱力」に一工程増えた。
学院から帰ると、まず揺り籠を覗く。赤ん坊が起きていると、五分ほど見つめる。「かわいい」と三回呟く。それからリリアーナの膝に向かう。順番が決まっている。
そして赤ん坊は、カミリアの顔を見ると笑う。毎回。例外なく。
「ママ、この子、私のこと覚えてるのかな」
「覚えてると思うわよ。カミリアの顔を見ると、いつも笑うもの」
「……そうかな。そうだといいな」
カミリアの声がふわふわしていた。氷の才媛の残滓がどこにもない。
笑うと召喚が出る。でもカミリアの前では小さな光の玉が一つ浮かぶだけだ。大型の召喚にはならない。まるで赤ん坊が、カミリアの前では加減しているかのように。
「この子、カミリアの前だと控えめに笑うのね」
「……私が好きだから、遠慮してくれてるんだと思う」
それは都合の良い解釈だったが、リリアーナは否定しなかった。実際、カミリアの前での召喚は穏やかだ。母としての勘は、何かを感じていた。この子は人を見ている。相手によって、力の出方が変わる。
マギーは、子守唄の達人になっていた。
最初は聖典を朗読しようとして止められた。リリアーナに普通の子守唄を教わった。二人で練習した。そして十日後——マギーの子守唄は、花籠の館で最も効果的な睡眠導入剤になっていた。
「おやすみ、おやすみ、明日また会いましょう」
マギーが歌うと、赤ん坊は二分で眠る。リリアーナが歌うと三分。カミリアが歌うと五分。ダリアは歌わないが、抱いていると七分で眠る。
マギーが最速だ。理由はわからない。声の高さが合っているのか、リズムが心地いいのか。マギーは「お姉ちゃんの愛が込められているからです」と言っている。
「マギーの子守唄が一番効くのね」
「はい! 御母上様に教えていただいた歌ですから。御母上様の御言葉は——」
「聖典にしないでね」
「……活動記録に書きます。『マギーの子守唄:睡眠導入時間二分。最速記録更新』」
活動記録なら、まあいいか。
リリアーナは居間の窓際で、この光景を見ていた。
ダリアが赤ん坊を抱いて微動だにせず、カミリアが育児書を片手に赤ん坊の発育状態を確認し、マギーが子守唄の練習をしている。
十日前は三人とも戸惑っていた。ダリアはミルクの温度を間違え、カミリアは「かわいい」しか言えず、マギーは護符を十二枚貼った。
今は違う。三人とも、自分なりのやり方で赤ん坊と向き合っている。失敗して、工夫して、少しずつ上手くなっている。
お姉ちゃんになっていく。三人とも、少しずつ。
リリアーナはお茶を飲んだ。カレンが作り置きしてくれた茶葉だ。温かい。
——この子たちは、大丈夫だ。
赤ん坊がいなくても、三人は立派だった。でも赤ん坊が来たことで、三人の中に「守りたいもの」がもう一つ増えた。母を守りたいという気持ちに、妹を守りたいという気持ちが加わった。
それは——母として、少し寂しくもあり、とても嬉しいことだった。
窓の外で、秋の花畑が揺れている。
もうすぐ、あそこにもう一つ花が増える。
名前を、決めなければ。




