第36話『もうすぐ、ここにもう一つ花が増える』
夜。返書を出した日の夜。
赤ん坊を寝かしつけた。今夜の夜間担当はダリアだ。「お母様は寝てください」と計画書の改訂第三版を示されたが、「五分だけ」と言って庭に出た。
五分が二十分になることを、リリアーナも、ダリアも、もう知っている。
花畑の前に立った。
月明かりが花を照らしている。百合。ダリア。椿。マーガレット。四つの花が、秋の夜風に揺れている。
返書を出した。全員の署名を入れた手紙を、街の郵便局に預けた。明日には領主の元に届くだろう。
「この子は花籠の館にて、私の家族として育てます」。
もう撤回はできない。する気もないが。
ただ——不安がないわけではなかった。
返書を書いている時は、迷わなかった。ダリアがそばにいてくれた。カミリアが追伸を書いてくれた。マギーが「お姉ちゃんとして」と書いてくれた。カレンが「温かい場所です」と書いてくれた。
全員が背中を押してくれた。全員が「一緒に育てる」と言ってくれた。
でも、夜になると。一人になると。
不安が静かに浮かんでくる。昼間は見えなかった影が、月明かりの下で輪郭を持ち始める。
自分は正しいことをしているのだろうか。
この子にとって、花籠の館が最善の場所なのだろうか。
孤児院には専門の職員がいる。栄養管理も、教育も、魔力の制御も、体系的なプログラムがある。プロの手で育てられたほうが、この子の将来のためになるのではないか。
翻って、花籠の館には何がある。食事を忘れる母親がいる。護衛計画書を振りかざす長女がいる。外面が三秒で崩壊する次女がいる。聖典を書く三女がいる。「しょうがない」が口癖の友人がいる。赤ん坊が泣けば魔獣が出て、笑えばフェニックスが出る。
客観的に見れば——この家はまともではない。
リリアーナは自分の手を見た。
月明かりに照らされた手。万象の魔法を使う手。娘たちの髪を撫でる手。全員の好物を覚えている手。自分の分を盛り忘れる手。
この手で、本当に育てられるのか。
自分の食事すら忘れる人間が。三日間寝ないで研究に没頭する人間が。娘に鍵をかけられないと生活が回らない人間が。
こんな人間のそばにいることが、この子の幸せなのか。
風が吹いた。花が揺れた。
百合が——リリアーナの名前の花が、月明かりの中で静かに揺れている。
二十年前のことを思い出す。
ダリアを拾った夜。あの時も不安だった。「私に育てられるのか」と。料理もできない。洗濯も溜める。子育てなんて何も知らない。
それでも拾った。それでも育てた。できないことだらけだったけど、一つだけ——この腕で抱きしめることだけは、できた。
カミリアを拾った冬の夜も。マギーを拾った春の夜も。
いつも不安だった。いつも「こんな私に」と思った。
でも、結果的に——三人とも、立派に育った。美人で、天才で、ちょっと変だけど。いや、だいぶ変だけど。
こんなに愛されるはずじゃなかった。あの日思った通りだ。こんな私が、三人もの娘に愛されるなんて。マザコンにしたのは、たぶんリリアーナのせいだ。愛を注ぎすぎたのかもしれない。
でも——あの子たちは、幸せそうだ。
ダリアは母を守れることが幸せで、カミリアは母の膝で安心できることが幸せで、マギーは母の名前を呼べることが幸せだ。
歪んでいるかもしれない。偏っているかもしれない。でも、三人とも笑っている。三人とも、この家にいることを選んでいる。
だったら——この子も。
腕の中で泣き止んだあの瞬間を思い出す。嵐の夜、玄関先で。あの温もりを思い出す。
あの時、この子は選んだのだ。まだ何も知らない赤ん坊が、リリアーナの腕を選んだ。泣き止むことで。しがみつくことで。
それだけで十分じゃないか。
「……大丈夫」
声に出して言った。花畑に向かって。自分に向かって。
「私には、あの子たちがいる」
一人ではない。もう一人ではない。二十年前、ダリアを拾った時は一人だった。何もわからないまま、一人で抱えた。
今は違う。ダリアがいる。カミリアがいる。マギーがいる。カレンがいる。五人いる。五人で育てる。
一人の母としては不完全かもしれない。食事を忘れるし、徹夜するし、自分の皿を盛り忘れる。
でも、五人の家族としてなら——きっと、大丈夫だ。
花畑の花が揺れている。月明かりの中で。
四つの花の隣に、まだ何も植えられていない一角がある。小さな空き地。この子の花を植える場所。
もうすぐだ。もうすぐ、ここにもう一つ花が増える。
「……早く名前を決めないとね」
呟いて、屋敷に戻った。
玄関でダリアが待っていた。腕を組んでいる。
「お母様。五分と仰いましたね」
「……何分だった?」
「二十五分です」
「……ごめんなさい」
「庭の滞在時間は計画書で管理します」
「……はい」
万象の魔女は今夜も、娘に管理されて眠りについた。
でも、心は軽かった。




