第34話『母のいない場所で、母を語る』
リリアーナが赤ん坊を寝かしつけに二階へ上がった。
居間に、四人が残った。
ダリア、カミリア、マギー、カレン。
暖炉の火がぱちぱちと音を立てている。窓の外は暗い。秋の夜だ。
しばらく、誰も話さなかった。家族会議の余韻が残っている。リリアーナの「放っておけないの」という言葉が、まだ空気の中に漂っているような気がした。
最初に口を開いたのは、カミリアだった。
「……ママ、大丈夫かな」
外面のない声だった。氷の才媛でも、甘えん坊でもない。ただの、母を心配する十八歳の声。
「体のこと。この子が来てから、明らかに寝てない。朝の膝枕の時、ママの手が少し冷たかったの。いつもはもっと温かいのに」
膝枕の温度で母の体調を測っている。毎朝の儀式は、甘えているだけではなかった。母の体温を、カミリアはずっと感じ取っていた。
ダリアが腕を組んで頷いた。
「計画書の改訂を重ねていますが、お母様はどうしても夜中に起きてしまう。光の玉が出ると、マギーや私が処理する前にお母様が動いてしまう。母としての本能が、計画書より速いんです」
母としての本能が、計画書より速い。ダリアの口から出た言葉としては、珍しく感情的だった。計画書で母を管理できると思っていた騎士が、管理しきれない領域があることを認めている。
「お母様を守りたい。それは今も変わりません。でも——お母様が守りたいものを奪うことは、できない」
ダリアの声が、少しだけ震えた。
「あの夜。お母様が赤ん坊を抱いて『もう大丈夫よ』と言った時、私は——二十年前を思い出しました。覚えているはずがないのに。私はあの時、赤ん坊だったのだから」
居間が静まった。
「でも、覚えているんです。体が。お母様に抱き上げられた時の温もりを。だから——この子からそれを奪うことは、私にはできません」
カミリアが目を伏せた。
「……私も。冬の夜に拾われた時のことは覚えてない。でもママの腕の中で泣き止んだ感覚は——知ってる。体が知ってる」
マギーが膝の上で手を握りしめていた。
「御母上様に名前をいただいた日のことは、覚えています。春の夜でした。マーガレットの花が咲いていた日です」
三人が、それぞれの夜を思い出している。秋の夜、冬の夜、春の夜。リリアーナに拾われた夜を。
全員が、かつての赤ん坊だった。全員が、同じようにリリアーナの腕の中で泣き止んだ。
カレンは台所の入り口に寄りかかって、黙って聞いていた。
この三人の話を聞くのは、初めてだった。リリアーナの前では、三人とも「お母様」「ママ」「御母上様」としか言わない。母がいない場所でしか出ない言葉がある。
「……あんたたちさ」
カレンが口を開いた。三人が振り向いた。
「結局、全員同じこと考えてるんだよね。リリィを守りたい。でもリリィが守りたいものも守りたい。矛盾してるけど、全員同じ矛盾を抱えてる」
身も蓋もない要約だった。でも正確だった。
「リリィはね、昔からああなの。あの人は自分のことが最後なんだよ。ご飯忘れるのも、徹夜するのも、全部そう。自分より先に、目の前の誰かに手が伸びる。直らないの。十年かけてわかった。あれは性格じゃなくて、性質だから」
カレンがため息をついた。いつものため息だが、今夜は少し長かった。
「だから、周りが支えるしかないの。リリィが自分を忘れる分だけ、あんたたちが覚えてればいい。リリィのご飯を。リリィの睡眠を。リリィの体を。リリィが見落とすものを、全部」
ダリアが背筋を伸ばした。
「……それは、私たちの仕事です」
「そう。あんたたちの仕事。そして——」
カレンが少し言い淀んだ。珍しいことだった。
「……私の仕事でもある。たぶん」
三姉妹がカレンを見た。カレンは視線を逸らして、壁の方を向いた。
「何。別に大したことじゃないです。しょうがないから手伝ってるだけ」
しょうがない。また「しょうがない」だ。
でも三姉妹は、もうこの言葉の意味を知っていた。カレンの「しょうがない」は、「そばにいる」の別の言い方だ。
マギーが立ち上がった。
「カレン姉さま」
「……何」
「ありがとうございます。御母上様のそばにいてくださって」
カレンの耳が、わずかに赤くなった。ダリアの花屋の時と同じ赤さ。照れているのだ。
「……礼を言われることじゃないです。勝手にやってるだけだから」
ダリアが小さく笑った。珍しいことだった。
「カレンさん。あなたも、この家の一員ですよ」
「別に家族じゃないです」
「家族じゃなくても、家の一員です」
カレンが何か言いかけて、やめた。ため息に変えた。
二階から、リリアーナの足音が聞こえてきた。赤ん坊を寝かしつけ終えたらしい。
四人が同時に姿勢を正した。母が来る前に、本音の時間は終わりだ。
リリアーナが階段を下りてきた。
「あらあら。みんなまだ起きてたの?」
穏やかな笑顔。いつもの顔。何も気づいていない。
「もう遅いわよ。みんな寝なさいな」
四人が頷いた。
母に見せない顔がある。母に言わない言葉がある。でもそれは、隠しているのではない。
母が安心して眠れるように、娘たちが裏で回しているだけだ。
リリアーナが最後に台所を覗いた。
「あ、カレン。洗い物ありがとう。……あら、この鍋は?」
「明日の分の作り置き。リリィは放っておくと食べないでしょう」
「あらあら。ありがとう。カレンは優しいわねぇ」
「優しくないです。しょうがないだけ」
リリアーナが笑った。カレンが顔を背けた。
四人がそれぞれの場所へ向かう。ダリアは部屋に。カミリアも部屋に。マギーは工房に(護符の改良をもう少しやるらしい)。カレンは小屋に帰る。
居間に、リリアーナだけが残った。
暖炉の火が小さくなっている。
リリアーナは知らない。さっきまでここで、四人が何を話していたのか。
でも——居間の空気が、少しだけ温かい気がした。暖炉のせいだけではない、温かさが残っている気がした。
「……みんな、いい子に育ったわねぇ」
誰もいない居間で、小さく呟いた。




