第32話『「しょうがない」が口癖の人』
使者が帰った後、カレンがお茶を淹れ直した。
自分の分と、リリアーナの分。リリアーナは使者の応対でお茶を飲む暇がなかった。いつものことだ。他人の世話をしている間に、自分のことが後回しになる。十年以上の付き合いで、カレンはこのパターンを嫌というほど知っていた。
「リリィ。飲んで」
湯気の立つカップをリリアーナの前に置いた。リリアーナは赤ん坊を片腕に抱いたまま、もう片方の手でカップを受け取った。
「ありがとう、カレン」
「お礼はいいから飲んで。顔色悪いですよ」
「あら、そう?」
「そう」
リリアーナがお茶をすすった。一口。二口。三口目で、少し肩の力が抜けた。使者の訪問で緊張していたのだ。表面には出さなかったが、カレンにはわかる。「あらあら」の裏でどれだけ気を張っていたか。
この人は、穏やかな顔で全部を抱え込む。それを「強さ」と呼ぶ人もいるだろう。カレンは「不器用」と呼んでいる。
ダリアが居間の片付けをしている。使者が転げ落とした椅子を直し、こぼれたお茶を拭き、召喚時にずれたテーブルを元の位置に戻している。手際がいい。騎士団の後始末と同じ手順で、淡々と処理している。ただ、手が微かに震えていた。ダリアの手が震えるのは珍しい。よほどのことがあったのだろう。
カミリアが赤ん坊の様子を確認している。召喚直後の魔力の残留を、学院で学んだ測定術式で計測している。「数値は安定してる」と小声で報告している。安心させようとしているのだ。母を。ただ、カミリアの顔色がまだ戻っていない。
マギーが護符の点検をしている。揺り籠に貼った六枚の護符を一枚ずつ確認し、召喚時の負荷で劣化したものを交換している。予備を常に持ち歩いている。お姉ちゃんの装備だ。マギーだけが、なぜか嬉しそうだった。
カレンは台所の入り口に寄りかかって、この光景を見ていた。
居間の空気に、まだ微かに残っている。リリアーナの魔力の残り香。使者がいた時に何かがあったのだ。カレンは遅れて来たから見ていないが、三姉妹の様子でわかる。リリアーナが——少しだけ、本気を漏らしたのだろう。
十年の付き合いで、一度だけ見たことがある。リリアーナの蓋が外れかけた瞬間を。あの時は森の魔獣がダリアに襲いかかった時だった。一瞬で森が静まった。魔獣どころか、鳥も虫も風も止まった。
この人の本気は——世界を黙らせる。
おかしな家だ、と思う。
何もかもがおかしい。世界最強の魔導師が自分のご飯を忘れる。騎士団のエースが枕で抱っこの練習をする。学年首席が赤ん坊の前で「かわいい」を連発して泣く。十五歳の少女が母親を神として崇拝しながら聖典を執筆する。赤ん坊が泣けば魔獣が出て、笑えばフェニックスが出て、寝れば光の玉が増殖する。
普通の家庭ではない。普通の家族ではない。
でも——温かい。
それだけは、否定できない。
カレンがリリアーナと出会ったのは、十年ほど前のことだ。
カレンはまだ十歳の子供で、旅の魔術師に師事して各地を転々としていた。師匠が用事でこの森を訪れた時、たまたまリリアーナの家に立ち寄った。あの頃はまだ「花籠の館」ではなく、ただの古い一軒家だった。
玄関を開けたリリアーナは、九歳のダリアを背負い、八歳のカミリアの手を引き、五歳のマギーを足にしがみつかせていた。三人同時に世話をしながら、空いている手で師匠にお茶を出した。空いている手など、なかったはずなのに。
カレンはその時思った。この人は、おかしい。
師匠が去った後もカレンはこの森に残った。理由は——わからない。わからないが、残った。リリアーナが「近くに空いてる小屋があるわよ」と言ったから。ただ、それだけだ。
以来十年。カレンはこの森に住んでいる。リリアーナの近くに。特別な理由はない。仲がいいから。それだけだ。
——本当に、それだけなのか。
カレンは自分に問うことがある。なぜ自分はここにいるのか。もっと便利な街に住めばいい。もっと優秀な魔術師に師事すればいい。この森に縛られる理由はない。
でも、この台所に立つと——五人分の食事を考えている自分がいる。六人分か。赤ん坊のミルクも入れると。
頼まれてもいないのに、冷蔵庫を開けている自分がいる。「しょうがない」と言いながら、鍋を出している自分がいる。
しょうがない。
この言葉を、もう何百回言っただろう。リリアーナが子供を拾うたびに。リリアーナがご飯を忘れるたびに。リリアーナが無茶をするたびに。
「しょうがない」は、カレンにとっての「好き」なのかもしれない。面倒くさいけど、放っておけない。——それは、リリアーナが捨て子を見つけた時と同じ感情ではないのか。
いや。考えすぎだ。
「……カレン?」
リリアーナが不思議そうに見ている。カレンが台所の入り口でぼんやりしていたらしい。
「何でもないです。夕飯の献立考えてただけ」
「あら。今日も作ってくれるの?」
「……たまたまです。毎日じゃないですからね」
「ふふ。ありがとう」
ありがとう。この人はいつも「ありがとう」と言う。何に対しても。誰に対しても。
お茶を淹れただけで「ありがとう」。夕飯を作っただけで「ありがとう」。そこにいるだけで「ありがとう」。
安売りだ、と思う。感謝の安売り。でも——安売りの「ありがとう」が、不思議と嫌ではない。
マギーが台所に来た。
「カレン姉さま。夕食のお手伝いをします」
「……いい。一人でやるから」
「お姉ちゃんとして、手伝います」
お姉ちゃん。マギーがこの言葉を使い始めたのは、赤ん坊が来てからだ。以前は「御母上様の崇拝者」しかなかった。今は「お姉ちゃん」がある。
小さな変化だが、カレンにはわかる。この家族は、新しい子が来るたびに変わる。ダリアが来た時、カミリアが来た時、マギーが来た時。そのたびにリリアーナが変わり、家が変わり、全員が変わった。
今回も同じだ。赤ん坊が来て、三姉妹がそれぞれ「お姉ちゃん」になった。ダリアは柔らかくなった。カミリアは正直になった。マギーは強くなった。
おかしな家だ。
面倒くさい家だ。
でも——
「……マギー。じゃあ野菜、洗ってくれる?」
「はい、カレン姉さま!」
しょうがない。
カレンは鍋を火にかけた。六人分。いや、明日のリリアーナの分も作り置きしておこう。あの人は、作り置きがなければ確実に食べない。
七人分か。面倒だ。
——でも、まあ。温かい台所は、嫌いじゃない。




