第31話『うちの子だもの』
使者は、手紙から三日後にやってきた。
森の結界が反応した。登録外の人物、一名。悪意なし。武装なし。公的な魔力印あり。手紙と同じ印だ。
ダリアが玄関に出た。リリアーナは赤ん坊を抱いたまま、居間で待った。
通されてきた使者は、四十代くらいの男性だった。領主の行政官らしく、きちんとした身なりで、物腰は柔らかい。目つきにも声にも、嫌な感じはなかった。
こういう人が一番厄介だ、とリリアーナは思った。悪い人間なら断りやすい。良い人間が正しいことを言うから、断りにくいのだ。
「万象の魔女様。このたびはお時間をいただき、感謝申し上げます」
深い礼。丁寧な挨拶。リリアーナは微笑んで応じた。
「わざわざ遠いところを。お茶をどうぞ」
カミリアが学院から帰宅済みで、氷の才媛の外面を装備していた。完璧な所作でお茶を淹れている。マギーは工房に引っ込んでいる。ダリアが使者の斜め後ろに立っている。護衛の位置だ。
使者が本題に入った。
「嵐の夜にお拾いになった赤子について、領として正式にご相談に参りました」
手紙と同じ内容を、口頭で、より丁寧に説明した。孤児院の設備。専門の職員。魔力を持つ子供の受け入れ実績。栄養管理、教育、将来の就労支援に至るまで、行き届いた体制が整っていること。
使者の言葉には熱意があった。孤児院を誇りに思っている。実際にいい施設なのだろう。子供のために尽くしている人々がいるのだろう。
「万象の魔女様には、既に三人のお嬢様がおられます。ご自身のご研究もおありでしょう。その上でさらに赤子の養育を——しかも召喚魔法をお持ちとなれば——ご負担は計り知れません」
使者が少し身を乗り出した。真剣な目。この人は本当に心配しているのだ。リリアーナの体を。赤ん坊の将来を。
「孤児院であれば、万象の魔女様のお手を煩わせることなく、この子に十分な環境を——」
「ありがとうございます」
リリアーナが遮った。穏やかに。
「領主様のお気遣い、よくわかりました。孤児院が素晴らしい場所であることも」
使者が頷いた。手応えを感じた顔をしている。
「では——」
「ただ」
リリアーナが続けた。
「もう少しだけ、考えさせていただけますか。すぐにお返事できなくて、ごめんなさいね」
使者の顔に、わずかな困惑が浮かんだ。断られたわけではない。しかし即答の引き渡しを期待していたらしい。
「もちろんです。お急ぎはいたしません。しかし、赤子の健全な成育のためにも、早めのご決断を——」
使者がリリアーナに一歩近づいた。
善意の一歩だった。赤ん坊を確認しようとしたのか、あるいは引き渡しの具体的な手続きを話そうとしたのか。
赤ん坊が、目を開けた。
知らない人の気配を感じたのだ。リリアーナの腕の中から、見知らぬ顔を見上げた。
小さな目が、使者を捉えた。
赤ん坊の体が硬くなった。
口が開いた。
顔が、真っ赤になった。
泣いた。
——居間の空気が、震えた。
赤ん坊の泣き声に反応して、床に魔法陣が展開した。淡い光が回転する。紋様が広がる。
光の中から、精霊獣が出てきた。猫サイズ。青い毛並み。丸い目。角が二本。
最初に見た時と同じ種類の精霊獣だった。きょとんとした顔で居間を見回している。
使者が椅子から転げ落ちた。
「な——っ!」
ダリアが動いた。一秒で剣を抜き、精霊獣の前に立つ。使者とリリアーナの間に割り込んで、両方を守る体勢。
カミリアが立ち上がった。両手を構えて魔法の防壁を張る。居間と廊下の間に透明な壁が出現した。被害の拡大を防ぐ。
工房からマギーが飛び出してきた。手に護符を三枚握っている。揺り籠の周辺に護符を追加して、魔力の余波を吸収する。
連携が完璧だった。花籠の館・召喚対策部隊。三秒で展開完了。
リリアーナは赤ん坊を抱き直した。ミルクではない。おむつでもない。この子は知らない人が怖いのだ。
赤ん坊の背中をゆっくりと撫でた。「大丈夫よ」と囁いた。赤ん坊の泣き声が小さくなっていく。
魔法陣が薄れ始めた。精霊獣がきょとんとした顔のまま、光に包まれて消えた。
使者が床の上に座り込んでいた。顔が蒼白だった。
「こ、この子は……召喚魔法を……赤子が……」
恐怖ではなかった。困惑だった。理解が追いつかない顔。赤ん坊が泣いただけで魔獣が出現する。そんな事態を、行政官の経験則は想定していない。
「あ、あの、この子は危険なのでは……! ますます孤児院のような管理された環境が——」
使者が立ち上がりかけた。赤ん坊のほうに手を伸ばしかけた。引き取る手続きを進めようとしたのか。善意だ。悪意はない。この子を安全な場所に移したいだけだ。
——空気が、変わった。
詠唱はなかった。術式もなかった。リリアーナは何もしていない。赤ん坊を抱いたまま、穏やかな顔をしている。「あらあら」と言いそうな、いつもの顔。
でも——居間の空気が、重くなった。
使者の体が動かなくなった。
伸ばしかけた手が、止まった。金縛りではない。拘束魔法でもない。ただ——体が、本能的に止まった。
窓ガラスが、かたかたと鳴っていた。風はない。外は穏やかな秋の日だ。なのに窓が軋んでいる。
食卓の上のカップが、微かに振動している。お茶の水面に波紋が広がっている。
庭の花畑の花が——一斉に、風もないのに揺れていた。
魔力だ。
リリアーナの魔力が、無意識に漏れている。万象の魔女としての魔力が、赤ん坊に手を伸ばそうとした人間に対して——母としての本能が——溢れ出している。
ダリアが背筋を伸ばした。騎士としての戦闘本能が、全力で警告を発していた。背中に冷汗が伝っている。この魔力の質を、ダリアは知っている。幼い頃から母のそばで感じてきた。普段は完璧に制御されている力。それが——蓋が外れかけている。
カミリアが蒼白になっていた。魔法学院の首席として、この魔力の規模を正確に測定できる。「……ママの魔力が」と唇が動いたが、声にならなかった。
マギーだけが、目を輝かせていた。恐怖ではなく、畏敬。御母上様の本当の力。十五年間そばにいて、初めて見る——万象の魔女の魔力の片鱗。
使者は——動けなかった。
行政官として何十年も働いてきた。領主に仕え、貴族と交渉し、魔術師とも折衝してきた。しかし今、目の前にいる女性が放つ空気は、そのどれとも違った。
この人は——穏やかに笑いながら、世界を壊せる人なのだ。
そしてその力が、腕の中の赤ん坊を守る方向に向いている。
一秒。二秒。
リリアーナが——気づいた。自分の魔力が漏れていることに。
「あら」
ぱたり、と。魔力が収まった。窓が鳴り止んだ。カップの振動が消えた。花畑の花が静まった。
何事もなかったかのように。お湯を沸かしすぎて火を止めた、くらいの自然さで。
「ごめんなさいね。ちょっと力が入っちゃったわ」
力が入った。万象の魔法が「ちょっと力が入った」。大陸を揺るがせる力が「ちょっと」。
「大丈夫よ」
リリアーナが言った。穏やかに。赤ん坊を抱いたまま。
「うちの子だもの」
言ってから気づいた。
「うちの子」と、自然に言った。考えて言ったのではない。口が勝手に動いた。
「預かっている子」でもなく、「拾った子」でもなく。「うちの子」。
もう決まっていたのだ。最初から。嵐の夜に抱き上げた瞬間から。
使者がリリアーナの顔を見ていた。万象の魔女の目。穏やかで、柔らかくて、でも——動かない目。
行政官としての経験が、使者に教えていた。この目をした人間は、何を言っても覆らない。
「……万象の魔女様。ご決断は」
「もう少しだけ、待ってくださいね。ちゃんとお返事しますから」
微笑んだ。穏やかに。
使者は深く頭を下げて、帰っていった。
玄関の扉が閉まった後、ダリアが剣を鞘に戻した。カミリアが防壁を解除した。マギーが護符を回収した。
居間に、いつもの静けさが戻った。
赤ん坊はリリアーナの腕の中で、もう泣いていなかった。小さな手が、リリアーナの服の裾を握ったままだった。
離さない、と言っているように。
リリアーナの手も、離していなかった。




