第30話『彼女の正論は、全部正しい』
手紙は、カレンが来た翌日の朝に届いた。
森の結界が反応した。登録されていない人物。リリアーナが気配を読む。悪意はない。武装もない。ただし公的な魔力の印がある。役人だ。
ダリアが玄関に出た。数分後、封書を手に戻ってきた。
「お母様。領主からの手紙です」
封蝋に紋章が押されている。アルディア王国の地方領主の印。花籠の館がある森を含む一帯を管轄する領主だ。リリアーナとは直接の面識はないが、「万象の魔女が領内に住んでいる」ことは当然認識しているだろう。
ダリアが封を切り、まず自分で中身を確認した。公文書の取り扱いに慣れた騎士の動作で、内容を把握してからリリアーナに渡す。
読み終えたダリアの表情が、わずかに曇った。
「……読み上げます」
居間に全員が集まった。リリアーナが赤ん坊を抱いてソファに座っている。カミリアが隣に座っている。マギーが揺り籠の横に立っている。カレンが台所の入り口に寄りかかって、腕を組んでいる。
ダリアが手紙を読み上げた。
文面は丁寧だった。敬語に敬語を重ねた、慎重な文章。領主としての礼節が行き届いている。要約するとこうだ。
——嵐の夜、領内にて捨て子が発見されたとの報告を受けた。
——捨て子の保護は領の責務であり、孤児院にて受け入れ準備が整っている。
——万象の魔女様におかれましては、ご自身の研究とお子様方の養育で既にお忙しいことと存じる。
——その上で新たな養育のご負担をおかけすることは、領としても心苦しい。
——孤児院には経験ある職員が常駐し、魔力を持つ子供の受け入れ体制もある。
——つきましては、近日中に使者を遣わすので、お引き渡しについてご相談させていただきたい。
正論だった。
どこにも悪意がなかった。むしろ好意と配慮に溢れた文面だった。リリアーナの体を気遣い、三姉妹の負担を心配し、赤ん坊の将来を思っている。領主としては模範的な対応だ。
ダリアが手紙を食卓に置いた。
「……正論です」
短い沈黙の後、ダリアが言った。声は静かで、いつもの騎士的な硬さがあった。
「正直に申し上げれば、私もそう思わないでもありません。お母様の体力の問題。睡眠時間の減少。研究時間の制限。この子の召喚魔法の危険性。領主の言うことは、全て事実です」
ダリアの目がリリアーナに向いた。心配の色が濃い。この子はいつも、母の体のことを一番に考える。騎士としての冷静な判断と、娘としての心配が、同じ方向を向いている。
カミリアが目を伏せた。
「……ママの顔色、最近良くないもんね」
小さな声だった。氷の才媛ではなく、母を心配する娘の声。
「夜中に何度も起きてるでしょう。護符で軽減してるって言っても、毎晩光の玉を処理してる。朝起きた時、目の下に隈ができてるの、気づいてないと思ってる?」
気づいていた。娘たちは全員、気づいていた。リリアーナが隠しているつもりの疲労を、三人ともちゃんと見ていた。
母の体を守りたい。それが、ダリアとカミリアの本音だ。赤ん坊を拒絶しているのではない。母を守るために、最善の選択を考えている。
リリアーナは黙っていた。赤ん坊を抱いたまま、手紙を見つめている。
正論だ。全部正しい。自分でもわかっている。自分の食事すら忘れる人間が、召喚魔法を持つ赤ん坊を育てられるのか。孤児院には専門の職員がいる。設備がある。魔力を持つ子供の扱いに慣れた人間がいる。リリアーナよりも適切な環境があるかもしれない。
頭ではわかっている。頭では。
でも——
腕の中の赤ん坊が、リリアーナの胸に顔を押しつけた。小さな手がリリアーナの服の裾を握っている。無意識だ。ただ温かい場所にしがみついているだけだ。
この手を、離すのか。この温もりを、手放すのか。
「御母上様」
マギーの声が、沈黙を破った。
全員がマギーを見た。末娘は揺り籠の横に立ったまま、まっすぐにリリアーナを見ていた。崇拝者の恍惚はなかった。お姉ちゃんの張り切りもなかった。聖典も、護符も、祝福もなかった。
ただ、十五歳の女の子が、真剣な目をしていた。
「この子は、家族です」
短い言葉だった。しかし声は揺るがなかった。
「この子は御母上様が拾いました。御母上様が抱いて、泣き止ませました。名前はまだありません。でも——もう、家族です」
マギーの声が少し震えた。感情が溢れかけている。それでも言葉は止まらなかった。
「私も、そうでした。名前がなくて、誰にも要らなくて、春の夜に森で泣いていました。御母上様が拾ってくれなかったら、私は今ここにいません」
ダリアが息を呑んだ。カミリアが顔を上げた。
二人とも、同じだ。同じように拾われた子だ。秋の夜に。冬の夜に。
「孤児院が悪い場所だとは思いません。きっと立派な施設で、優しい職員がいるのだと思います。でも——」
マギーが一歩前に出た。
「この子を泣き止ませたのは、御母上様です。孤児院の職員ではありません。この子が最初に安心した場所は、御母上様の腕の中です。それは——何にも代えられないものだと、私は知っています」
マギーの目に涙が浮かんでいた。でも泣いていなかった。泣かないように堪えていた。お姉ちゃんだから。泣いている場合ではないから。
「お姉ちゃんとして、言います。この子を手放さないでください、御母上様」
居間が静まった。
マギーの言葉が、空気の中に残っている。
ダリアが目を閉じていた。何を考えているのかは、わからない。でも、手紙を読み上げた時よりも、表情が柔らかくなっている気がした。
カミリアが鼻を啜った。「泣いてないから」と小声で言った。泣いていた。
カレンが台所の入り口で、腕を組んだまま黙っていた。何も言わなかった。ただ、口元にかすかな笑みが浮かんでいた。この人はいつもそうだ。大事な場面では何も言わず、ただ見ている。
リリアーナは赤ん坊を見た。赤ん坊がリリアーナを見上げた。きょとんとした目。何もわかっていない目。ただ、温かい場所にいることだけを知っている目。
手紙は食卓の上に置かれたまま。
返事は、まだ書かなかった。




