第28話『何も起きない午後が一番幸せだ』
対策会議の翌日。奇跡が起きた。
赤ん坊が、何も召喚しなかった。
午前中いっぱい、赤ん坊は起きていて、泣かず、笑わず、きょとんとした顔で過ごした。ダリアの言う「安全な状態」が、三時間も続いた。
マギーの護符が効いているのか。赤ん坊の機嫌がたまたま良いのか。理由はわからない。ただ、穏やかだった。
リリアーナは赤ん坊を膝に乗せて、居間の窓際に座っていた。
秋の陽射しが差し込んでいる。温かい光が、赤ん坊の頬を照らしている。赤ん坊がリリアーナの指を握っている。小さな手。指が五本。爪が五つ。全部、信じられないくらい小さい。
カミリアが「全部小さい、かわいい」と言っていた気持ちが、改めてわかる。この小ささには抗えない。
窓の外では、ダリアが庭で素振りをしている。
いつもの光景だ。剣を振る姿は美しい。無駄がなくて、流れるように滑らかで。ただ今日は、時折手を止めて、窓の方を見る。居間にいる赤ん坊の様子を確認しているのだ。素振りと見守りを同時にやっている。
十回振って、一回確認。十回振って、一回確認。騎士の訓練に赤ん坊の監視が組み込まれている。
カミリアは居間の反対側で本を読んでいる。
学院の教科書ではなく、育児書だった。街で買ってきたらしい。「氷の才媛」が、真剣な顔で育児書を読んでいる。時々メモを取っている。論文を読む時と同じ精密さで、赤ん坊の発育段階と適切な対応を分析している。
この子は何でも「学問」にする。赤ん坊の世話すら、カミリアにとっては研究対象になるらしい。でもそれがカミリアなりの愛し方だ。知ることで、守ろうとしている。
マギーは工房にいるはずだ。赤ん坊用の護符の改良を続けている。昨日の会議で「三割の軽減」と報告したことが悔しかったらしく、「五割まで上げます」と宣言して工房に篭った。お姉ちゃんのプライドがかかっている。
三人がそれぞれの場所で、それぞれのやり方で、赤ん坊のことを考えている。
誰に言われたわけでもなく。自然に。
リリアーナは膝の上の赤ん坊を見た。
きょとんとした目がリリアーナを見上げている。何もわかっていない。自分のせいでフェニックスが出たことも、対策会議が開かれたことも、三人の姉がそれぞれに奮闘していることも。
ただ、温かい場所にいることだけをわかっている。それだけで十分な顔をしている。
この子が来てから、確かに大変になった。
睡眠時間は減った。研究時間はさらに減った。召喚獣は増えた。ダリアの計画書は改訂された。マギーの護符は増産された。カミリアの外面は崩壊の頻度が上がった。
カレンも呆れるだろう。次に顔を出しに来たら「リリィ、また家族増えてるんですけど」と言うに違いない。
でも——この家が、少しだけ賑やかになった。
それだけで十分だと、リリアーナは思う。
赤ん坊がリリアーナの指を握ったまま、小さくあくびをした。
眠くなってきたらしい。眠ると光の玉が出る。でも今は、マギーの護符がある。ダリアの見守りがある。カミリアの知識がある。
一人で全部を抱え込まなくていい。
二十年前は一人だった。ダリアを拾った夜、誰もいなかった。森の中で、一人で赤ん坊を抱いて、何もわからないまま歩いた。
今は違う。
「……おやすみ」
赤ん坊に囁いた。赤ん坊が目を閉じた。
光の玉が一つ、ぽうっと浮かんだ。
窓の外で、ダリアが素振りを止めた。窓を見た。リリアーナが小さく頷いた。大丈夫、と。
カミリアが育児書から顔を上げた。光の玉を見た。立ち上がりかけて——リリアーナが首を振った。大丈夫、と。
工房の方から、マギーの声が微かに聞こえた。「護符の効果を測定します」。何か計測しているらしい。
リリアーナが小さく詠唱した。
「還りなさい、小さな光」
光の玉が、ふわりと消えた。赤ん坊は起きなかった。
穏やかな午後だった。
花籠の館の中で、一番穏やかな午後。
赤ん坊が膝の上で眠って、三人の娘がそれぞれの場所で過ごしていて、母がその全部を見ている。
それだけの時間。
何も起きない。何も壊れない。誰も泣かない。
こういう午後が、一番幸せだ。




