第23話『氷の才媛、赤ん坊の前で全面降伏』
カミリアが学院から帰ってきた。
いつもの通り、玄関で靴を脱いで、鞄を置いて——まっすぐリリアーナの膝に向かう。帰宅後の儀式だ。「ママぁ、なでなでぇ」からの脱力。これが毎日のカミリアのリセットボタンだった。
しかし今日は、膝に到達する前に足が止まった。
居間のソファに、揺り籠がある。
揺り籠の中に、赤ん坊がいる。起きている。きょとんとした目で天井を見上げている。
カミリアの足が止まった。
赤ん坊が来てから数日。カミリアは学院があるため、日中は不在だ。朝の出発前と夜の帰宅後にしか赤ん坊と顔を合わせない。しかもこれまでは、帰宅時に赤ん坊が起きていることが少なかった。眠っているか、ダリアやマギーに抱かれているか。
今日は違った。赤ん坊が一人で揺り籠にいる。起きている。そしてカミリアのほうを見た。
小さな目が、カミリアを捉えた。
カミリアの外面が、音を立てて崩壊した。
「……かわいい」
声が漏れた。漏れたというか、溢れた。
銀縁の眼鏡の奥の目が、完全にとろけている。氷の才媛は跡形もない。
「かわいい。手が小さい。指が小さい。爪が小さい。全部小さい。かわいい」
止まらなかった。カミリアが揺り籠の横にしゃがみ込んで、赤ん坊の手を見て、足を見て、耳を見て、そのたびに「かわいい」が出てくる。学院で論文を読む時の精密な観察眼が、赤ん坊のかわいさの解析に全力投入されていた。
リリアーナは台所からその様子を見ていた。
カミリアには三つの顔がある、と改めて思う。
一つ目は「氷の才媛」。学院での顔。涼しくて、隙がなくて、完璧。
二つ目は「ママのなでなで」。家での顔。甘えて、溶けて、膝で眠る。
三つ目が、今日新たに加わった。赤ん坊の前で全てが決壊する顔。二つ目よりさらに崩壊度が高い。
「……抱いていい?」
カミリアが振り向いた。リリアーナに許可を求めている。目が潤んでいる。抱く前から感動している。
「もちろんよ。頭を支えてね」
カミリアが慎重に赤ん坊を抱き上げた。
ダリアのような硬さはなかった。カミリアの腕は魔法使いの腕だ。精密だが力は弱い。赤ん坊の重さに自然に腕が合う。むしろ柔らかすぎるくらいで、リリアーナが「もう少ししっかり」と声をかけた。
赤ん坊がカミリアの顔を見上げた。
数秒の沈黙。
それから——にこっ、と笑った。
カミリアが固まった。
「……笑った」
呟きだった。声が震えていた。
「ママ。この子、笑った。私に向かって笑った」
リリアーナは頷いた。笑った。確かに笑った。赤ん坊がカミリアに向かって笑った。
そして——居間の隅に小さな光の玉がぽうっと浮かんだ。笑いに反応した召喚。ただし規模は小さい。光の玉が一つだけ。
カミリアは光の玉に気づいていなかった。赤ん坊の笑顔しか見ていなかった。
「……この子、私のこと好きなのかな」
「好きよ。カミリアの腕、柔らかいもの」
「……柔らかい」
カミリアの目から、一筋だけ涙が落ちた。泣いている自覚はなさそうだった。
氷の才媛が、赤ん坊に笑われただけで泣いている。外面とは何だったのか。三秒変身の技術はどこに行ったのか。
光の玉がもう一つ浮かんだ。カミリアはまだ気づかない。リリアーナが指先でそっと消した。
「……ママ」
「なあに?」
「私、この子のお姉ちゃんにもなれる?」
マギーが「お姉ちゃんは私です」と主張するのが聞こえてきそうだったが、今この瞬間は黙っておく。
「もちろんよ。カミリアはお姉ちゃんよ」
「……お姉ちゃん」
カミリアが赤ん坊を見つめた。赤ん坊がまた笑った。カミリアの涙がまた一筋。光の玉がまた一つ。
涙と笑顔と召喚が同時進行している。カオスだが、美しいカオスだった。
ダリアが庭から戻ってきた。枕を抱えている。柔らかさの訓練帰りだ。
「カミリア。学院のほうは——」
居間の光景を見て、止まった。
カミリアが赤ん坊を抱いて泣いている。光の玉が三つ浮いている。リリアーナがそっと消している。
「……何があった」
「赤ん坊に笑われたの」
「……それで泣いてるのか」
「そうみたいね」
ダリアが深くため息をついた。
「……カミリア。その顔、学院では——」
「しない。絶対しない。家だけ」
涙声で即答した。外面の最後の砦だけは守るらしい。
マギーが工房から出てきた。状況を見て、護符を一枚差し出した。
「涙を拭く用の聖なるハンカチです」
「普通のハンカチちょうだい」
「聖なるハンカチは普通のハンカチです」
カミリアが受け取って涙を拭いた。赤ん坊はまだ笑っている。光の玉が四つになった。リリアーナが四つ目を消した。
花籠の館の居間は、笑顔と涙と光の玉で満ちていた。
大変だけど——温かい午後だった。




