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万象の魔女、子育て奮闘中!~娘は全員マザコン、4人目は召喚獣付き~  作者: 浅沼まど
第5章【 赤ん坊がいると、全員おかしくなります 】

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第23話『氷の才媛、赤ん坊の前で全面降伏』

 カミリアが学院から帰ってきた。


 いつもの通り、玄関で靴を脱いで、鞄を置いて——まっすぐリリアーナの膝に向かう。帰宅後の儀式だ。「ママぁ、なでなでぇ」からの脱力。これが毎日のカミリアのリセットボタンだった。

 しかし今日は、膝に到達する前に足が止まった。


 居間のソファに、揺り籠がある。

 揺り籠の中に、赤ん坊がいる。起きている。きょとんとした目で天井を見上げている。


 カミリアの足が止まった。


 赤ん坊が来てから数日。カミリアは学院があるため、日中は不在だ。朝の出発前と夜の帰宅後にしか赤ん坊と顔を合わせない。しかもこれまでは、帰宅時に赤ん坊が起きていることが少なかった。眠っているか、ダリアやマギーに抱かれているか。

 今日は違った。赤ん坊が一人で揺り籠にいる。起きている。そしてカミリアのほうを見た。


 小さな目が、カミリアを捉えた。


 カミリアの外面が、音を立てて崩壊した。


「……かわいい」


 声が漏れた。漏れたというか、溢れた。

 銀縁の眼鏡の奥の目が、完全にとろけている。氷の才媛は跡形もない。


「かわいい。手が小さい。指が小さい。爪が小さい。全部小さい。かわいい」


 止まらなかった。カミリアが揺り籠の横にしゃがみ込んで、赤ん坊の手を見て、足を見て、耳を見て、そのたびに「かわいい」が出てくる。学院で論文を読む時の精密な観察眼が、赤ん坊のかわいさの解析に全力投入されていた。


 リリアーナは台所からその様子を見ていた。

 カミリアには三つの顔がある、と改めて思う。

 一つ目は「氷の才媛」。学院での顔。涼しくて、隙がなくて、完璧。

 二つ目は「ママのなでなで」。家での顔。甘えて、溶けて、膝で眠る。

 三つ目が、今日新たに加わった。赤ん坊の前で全てが決壊する顔。二つ目よりさらに崩壊度が高い。


「……抱いていい?」


 カミリアが振り向いた。リリアーナに許可を求めている。目が潤んでいる。抱く前から感動している。


「もちろんよ。頭を支えてね」


 カミリアが慎重に赤ん坊を抱き上げた。

 ダリアのような硬さはなかった。カミリアの腕は魔法使いの腕だ。精密だが力は弱い。赤ん坊の重さに自然に腕が合う。むしろ柔らかすぎるくらいで、リリアーナが「もう少ししっかり」と声をかけた。


 赤ん坊がカミリアの顔を見上げた。

 数秒の沈黙。

 それから——にこっ、と笑った。


 カミリアが固まった。


「……笑った」


 呟きだった。声が震えていた。


「ママ。この子、笑った。私に向かって笑った」


 リリアーナは頷いた。笑った。確かに笑った。赤ん坊がカミリアに向かって笑った。

 そして——居間の隅に小さな光の玉がぽうっと浮かんだ。笑いに反応した召喚。ただし規模は小さい。光の玉が一つだけ。


 カミリアは光の玉に気づいていなかった。赤ん坊の笑顔しか見ていなかった。


「……この子、私のこと好きなのかな」

「好きよ。カミリアの腕、柔らかいもの」

「……柔らかい」


 カミリアの目から、一筋だけ涙が落ちた。泣いている自覚はなさそうだった。

 氷の才媛が、赤ん坊に笑われただけで泣いている。外面とは何だったのか。三秒変身の技術はどこに行ったのか。


 光の玉がもう一つ浮かんだ。カミリアはまだ気づかない。リリアーナが指先でそっと消した。


「……ママ」

「なあに?」

「私、この子のお姉ちゃんにもなれる?」


 マギーが「お姉ちゃんは私です」と主張するのが聞こえてきそうだったが、今この瞬間は黙っておく。


「もちろんよ。カミリアはお姉ちゃんよ」

「……お姉ちゃん」


 カミリアが赤ん坊を見つめた。赤ん坊がまた笑った。カミリアの涙がまた一筋。光の玉がまた一つ。

 涙と笑顔と召喚が同時進行している。カオスだが、美しいカオスだった。


 ダリアが庭から戻ってきた。枕を抱えている。柔らかさの訓練帰りだ。


「カミリア。学院のほうは——」


 居間の光景を見て、止まった。

 カミリアが赤ん坊を抱いて泣いている。光の玉が三つ浮いている。リリアーナがそっと消している。


「……何があった」

「赤ん坊に笑われたの」

「……それで泣いてるのか」

「そうみたいね」


 ダリアが深くため息をついた。


「……カミリア。その顔、学院では——」

「しない。絶対しない。家だけ」


 涙声で即答した。外面の最後の砦だけは守るらしい。


 マギーが工房から出てきた。状況を見て、護符を一枚差し出した。


「涙を拭く用の聖なるハンカチです」

「普通のハンカチちょうだい」

「聖なるハンカチは普通のハンカチです」


 カミリアが受け取って涙を拭いた。赤ん坊はまだ笑っている。光の玉が四つになった。リリアーナが四つ目を消した。


 花籠の館の居間は、笑顔と涙と光の玉で満ちていた。

 大変だけど——温かい午後だった。

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