第21話『もうすぐ、ここにもう一つ花が増える』
夜。
赤ん坊を抱いて、庭に出た。
交代制の二日目。今夜の夜間担当はダリアだ。「お母様は寝てください」と計画書の改訂版を突きつけられたが、寝る前に少しだけ外の空気を吸いたかった。
ダリアには「五分だけ」と言った。五分だけ。それは嘘ではない。たぶん。
秋の夜の庭は、月明かりに照らされて銀色に光っていた。嵐の後の空は澄んでいて、星がよく見える。森に囲まれた花籠の館の庭は、世界中のどこよりも星に近い場所だとリリアーナは思っている。
花畑の前に立った。
百合。ダリア。椿。マーガレット。
四種類の花が、月の光の中で静かに揺れている。嵐で少し倒れかけた株もあったが、マギーが朝のうちに支柱を立ててくれた。「御母上様の聖なる花畑を守るのは、三女の務めです」と言っていた。聖なる花畑ではなく、ただの花畑だが。
赤ん坊が腕の中で目を開けた。起きたのか、と思ったが、泣く気配はない。きょとんとした目で、月明かりに照らされた花畑を見ている。
花が見えているのかは、わからない。赤ん坊の視力で、月明かりの花を認識できるかは怪しい。でも、何かが目の前にあることはわかるのかもしれない。小さな手が、花の方向に伸びた。
百合の花が揺れた。風ではない。赤ん坊の微かな魔力が触れたのだ。花弁が淡い光を帯びて、一瞬だけ輝いた。
リリアーナは目を見張った。
召喚ではない。破壊でもない。赤ん坊の魔力が花に触れて、花がそれに応えただけ。悪意のない、純粋な魔力の交感。
この子の力は、壊すためだけのものではない。触れて、応えて、繋がることもできる。
「……きれいねぇ」
赤ん坊に話しかけた。返事はない。でも、小さな手がまだ花の方を向いている。
リリアーナは花畑を見回した。
百合。リリアーナの名前の花。自分で植えた。自分のために——ではなく、娘たちの花と一緒に咲きたかったから。
ダリア。秋の花。大きくて堂々として、鮮やかに咲く。あの子にぴったりの花だ。
椿。冬の花。凛として、美しくて、散る時も姿勢が崩れない。カミリアそのものだ。
マーガレット。春の花。素朴で、真っ直ぐで、誰からも愛される花。マギーの笑顔と同じだ。
四つの花が並んで咲いている。四人の家族を映して。
腕の中の赤ん坊を見た。
この子にも、名前をつけなければ。花の名前を。この花畑に、もう一つ加わる花の名前を。
でも——まだ、だ。
名前をつけるのは、もう少し待ちたかった。この子のことを、もっと知ってからにしたい。どんな顔で笑うのか。どんな声で泣くのか。どんな花が似合うのか。
ダリアの時も、カミリアの時も、マギーの時も、名前はすぐには決めなかった。何日か一緒に過ごして、この子にはこの名前だ、と確信が生まれてからつけた。
名前は一生のものだから。急いではいけない。
赤ん坊が小さくあくびをした。眠くなってきたらしい。
眠ると召喚が始まる。光の玉が漏れ出す。今夜はダリアが処理してくれる。ダリアは剣術で鍛えた反射神経で光の玉を捕まえようとするだろう。万象の魔法のような精密さはないが、気合と根性でなんとかするのがダリアだ。
少し心配だが、まあ、大丈夫だろう。あの子はリリアーナが信じている以上に強い。
「さて。そろそろ戻りましょう」
赤ん坊を抱き直した。庭の花に、小さく声をかける。
「おやすみなさい」
花に。娘たちに。そしてまだ名前のない、この小さな子に。
屋敷に戻ると、玄関でダリアが腕を組んで待っていた。
「お母様。五分、と仰いましたね」
「……あら。何分だった?」
「二十分です」
四倍だった。時間の感覚がなくなるのは、花畑の前に立つといつものことだ。花と話していると時間を忘れる。研究と同じだ。好きなことの前では、時計が止まる。
「ごめんなさい、ダリア」
「明日からは庭の滞在時間も計画書に加えます」
「……それは」
「加えます」
万象の魔女の行動範囲が、また一つ狭まった。
赤ん坊をダリアに預けた。ダリアが慎重に、しかし確実に赤ん坊を抱き取る。ミルクの温度は間違えたが、抱き方はもう覚えたらしい。さすがの習得速度だ。
「おやすみなさい、ダリア。この子をよろしくね」
「はい、お母様。おやすみなさい」
階段を上がりながら、振り返った。
ダリアが赤ん坊を抱いている。騎士が、小さな命を守っている。十九歳の長女が、名前もまだない赤ん坊を、大事そうに抱いている。
みんな、花みたいに綺麗に育った。
強くて、優しくて、ちょっと変だけど。
……ちょっとどころじゃないかもしれないけど。
でも——母は、幸せだ。




