第20話『名前をくれた人』
翌日の午後。
ダリアの計画書・改訂版が出た。
改訂内容は一点。「赤ん坊の夜間見守りは交代制とし、お母様の連続稼働を禁止する」。
リリアーナは一度も反論せずに受け入れた。昨夜の一睡もできなかった事実は、さすがに反論の余地がなかった。
交代制の初日、午後の担当はマギーだった。
リリアーナは「少しだけ仮眠を」と言われてベッドに追いやられたが、眠れなかった。研究者の性で、一度目が覚めると考え事を始めてしまう。赤ん坊の召喚魔法の制御方法、魔力の漏出パターン、護符による抑制の可能性——
結局起き上がって、マギーの工房に向かった。
工房の扉は半開きだった。
中を覗くと、マギーが揺り籠の横に座って、護符を作っていた。膝の上に作業板を乗せ、細い刻印刀で紋様を刻んでいる。時折手を止めて、揺り籠の赤ん坊を見る。赤ん坊は眠っている。光の玉が一つだけ浮かんでいた。マギーが指先で触れると、玉がぽふっと消えた。付与魔法を応用した消去だ。万象の魔法ほど精密ではないが、光の玉程度ならマギーの力で十分に対処できる。
ちゃんとやっている。お姉ちゃんとして、ちゃんとやっている。
リリアーナが扉を開けると、マギーが顔を上げた。
「御母上様。お休みになっていなかったのですか」
「眠れなくて。ごめんなさい」
「……ダリア姉さまに報告しますよ」
「それだけはやめて」
マギーが小さく笑った。冗談だったらしい。この子は時々、こういう笑い方をする。崇拝者の顔でも、お姉ちゃんの顔でもない、十五歳の女の子の悪戯っぽい笑い方。
リリアーナは工房の椅子を引いて、マギーの隣に座った。
しばらく無言で、マギーの作業を見ていた。刻印刀の動きが正確で迷いがない。一つの紋様に、どれだけの時間をかけて技術を磨いてきたのかが、手元を見るだけでわかる。
「上手になったわねぇ、マギー」
「御母上様に教えていただいたからです」
教えた。確かに教えた。付与魔法の基礎は、リリアーナがマギーに手ほどきした。五歳の頃から。子守唄の代わりに詠唱を教え、積み木の代わりに刻印を教えた。
普通の子育てではなかった、と今になって思う。でも当時は、それが精一杯だった。魔法しか知らない自分が、子供に教えられるものが魔法しかなかった。
「御母上様」
「なあに?」
「覚えていますか。私が初めて、御母上様の絵を描いた日」
覚えている。もちろん覚えている。
「マギーが五歳の時よね。クレヨンで描いた似顔絵。『神様の絵』って言って見せてくれたの」
全然似ていなかった。丸い顔に棒の手足、髪の毛が放射状に広がった、五歳児の絵。でも嬉しかった。自分の顔を描いてくれたことが。マギーが「これはお母さん」ではなく「これは神様」と言ったことに少し戸惑ったが、五歳児の「神様」は「一番すごい人」くらいの意味だろうと、その時は思った。
「あの日から、私は御母上様を崇拝しています」
五歳から。十年間。一日も欠かさず。
聖典を書き、絵を描き、聖遺物を集め、護符に祝福を込め続けてきた。十年間。
「……マギーは大袈裟ねぇ」
「大袈裟ではありません」
マギーが刻印刀を置いた。手を膝の上で揃えて、リリアーナを真っ直ぐに見た。
「御母上様が私に名前をくれたから」
声が静かだった。崇拝の熱はなかった。もっと深い、もっと根本的な場所から出てくる声だった。
「私は、御母上様がいなかったら、誰にも要らない子でした。森の中に捨てられて、名前もなくて、誰にも見つけてもらえなかったかもしれない」
マギーの目が、赤ん坊の揺り籠に向いた。
「この子と、同じです。私もこの子も、御母上様に拾っていただかなかったら——」
言葉が途切れた。マギーの睫毛が震えている。
「……だから、御母上様は、私にとって神なんです。大袈裟ではなく。本当に」
リリアーナの胸が痛んだ。
痛い、というのとは少し違う。温かくて、苦しくて、愛おしい。全部同時に来る感情に、名前がつけられない。
この子は、捨てられた子だった。森の中で泣いていた子だった。春の夜に、マーガレットの花が咲いている横で。
名前をつけた。マーガレット、と。春の花。素朴で、真っ直ぐで、可愛らしい花。
この子にぴったりだと思った。
「要らない子」。マギーは自分をそう呼ぶ。でもリリアーナにとっては——
あの夜、泣いているマギーを拾い上げた時。
「この子には私が必要だ」と思った。
でも今になってわかる。本当は逆だった。
ダリアを育てて、カミリアを育てて、それでも足りなかった。リリアーナの腕にはまだ余裕があった。まだ抱ける、まだ温められる、まだ名前をつけられる。
マギーが来てくれたから——リリアーナは三人目の母になれた。
この子が、リリアーナには必要だったのだ。
リリアーナは何も言わなかった。言葉にすると、たぶん泣いてしまう。泣いたらマギーが動揺する。マギーが動揺したら聖典に「御母上様涙の章」が増える。それは困る。
だから、代わりに。
マギーの頭を、そっと撫でた。
マギーが目を閉じた。十五歳の女の子が、母の手のひらの下で、小さくなった。
崇拝者でもなく。お姉ちゃんでもなく。ただの、母に撫でてもらっている子供の顔で。
揺り籠の中で、赤ん坊が寝返りを打った。光の玉が一つ、ぽうっと浮かんだ。
マギーが目を開けて、指先で消した。ぽふっ。
「……この子の光の玉、消すの上手になったわね」
「はい。お姉ちゃんですから」
マギーが笑った。
その笑顔には、崇拝と、誇りと、十五年分の「ありがとう」が全部入っていた。




