第18話『御母上様語録・完全版(出版不可)』
午後。赤ん坊が眠っている隙に、リリアーナはマギーの工房を訪ねた。
赤ん坊用の護符を頼んだ件の確認だ。午前中に「優しい護符を作って」とお願いしたが、マギーの「優しい」と一般的な「優しい」が同じかどうか、確認しておく必要がある。この子の「控えめに」は、世間の「全力で」に相当することがあるから。
工房の扉を開けた。
——壁が、増えていた。
正確に言うと、壁に貼られた絵が増えていた。御母上様ギャラリー。リリアーナの似顔絵が壁一面を埋め尽くしている。前に来た時より確実に三枚は増えている。
一枚は、リリアーナが庭で水やりをしている絵。
一枚は、リリアーナが台所で鍋を持っている絵。
一枚は——リリアーナが赤ん坊を抱いている絵。
昨日の夜のことだ。もう描いたのか。仕事が早い。
「御母上様! ようこそ、聖なる工房へ!」
マギーが奥から出てきた。エプロンの上に護符の素材が散らばっている。手が汚れている。作業中だったらしい。
「マギー、この絵……」
「昨夜の御姿を記録いたしました。嵐の中で赤ん坊を抱かれる御母上様——聖画の新作です」
「……いつ描いたの?」
「今朝、召喚騒ぎの後に」
召喚魔法で居間が大騒ぎになった直後に、工房で絵を描いていたのか。この子の行動の優先順位が時々わからなくなる。
「あと、マギー。私のハンカチ、知らない? 先月からなくて」
「……」
「マギー?」
「……聖遺物の棚に」
「返して」
「聖遺物を返却することは教義に——」
「マギー」
「……はい」
棚からハンカチが戻ってきた。少し皺がついている。丁寧に保管されていたのはわかるが、聖遺物にされても困る。
「護符のほうはどう?」
マギーが作業台の上を見せた。小さな護符が三つ並んでいる。木の板に細かい紋様が刻まれて、淡い光を放っている。
手に取ってみる。魔力の流れが穏やかだった。朝の「最高位の防護結界」とは全然違う。赤ん坊を温かく包み込むような、柔らかい魔力。
「これ、すごくいいわ。マギー、上手に作ったわね」
「……本当ですか」
「本当よ。赤ん坊にぴったりの強さ。優しい護符」
マギーが、ぱっと顔を輝かせた。朝の護符が強すぎると言われた時のしょんぼりが嘘のように。
この子は褒められると全身で喜ぶ。リリアーナの言葉が何よりの報酬なのだ。嬉しいが、もう少し自分の価値を自分で認められるようになってほしいとも思う。
「あ。それから、御母上様に重要なご報告がございます」
マギーが姿勢を正した。真剣な顔だ。いや、真剣を通り越して厳粛な顔だ。何かの式典が始まりそうな空気。
「『御母上様語録・完全版』の出版準備が、ついに整いました」
聖典だ。
マギーが何年もかけて編纂してきた、リリアーナの発言録。全九章。リリアーナが日常で口にした言葉を、一つ残らず記録し、章立てし、注釈をつけ、索引まで作った労作。
その存在は知っていた。中身は見たことがない。見る勇気がなかった。
「出版社を探す前に、まず御母上様の御承認をいただきたく」
「見せて」
分厚い原稿の束を受け取った。表紙には『御母上様語録・完全版——万象の言葉、永遠に』と達筆で書かれている。副題が大袈裟すぎる。
ぱらぱらとめくった。
第一章『朝の御言葉』。
第一節。「あら、もう朝?」——御母上様・研究塔にて。
第二節。「ごめんなさい、つい夢中に」——御母上様・朝食時。
第三節。「お茶は食事じゃないのよ?」——御母上様・マギーへの教え。
普通の発言しか入っていなかった。
名言でもなんでもない、日常会話がすべて「聖なる言葉」として記録されている。
第三章第七節。「あら、このお芋、美味しいわね」——御母上様・収穫祭の夜。
注釈:御母上様が秋の実りに感謝を述べられた神聖な一節。この言葉により、花籠の館の食卓に恒久的な豊穣が約束された。
約束されていない。お芋を食べて美味しかっただけだ。
第七章第一節。「マギー、聖典に何でもかんでも書かなくていいのよ?」——御母上様・研究塔にて。
注釈:聖典の在り方について御母上様が示された深遠なる問いかけ。記録の意義を問い直す、メタ的な御言葉。
メタ的な御言葉。ただの注意だったのだが。
リリアーナは原稿を閉じた。
ダリアが工房の入り口に立っていた。いつから聞いていたのかわからない。
「却下です」
「姉さま——」
「お母様の私生活が全て記録された原稿を、不特定多数に公開するわけにはいきません。安全上の問題です」
カミリアも顔を出した。
「……却下。私の『ママぁ、なでなでぇ』が入ってたら死ぬ」
「カミリア姉さまの項目は別冊『花籠の館・家族の記録』に——」
「別冊があるの!?」
カミリアの声が裏返った。氷の才媛が完全に崩壊していた。
「御母上様。せめて、家族内限定の非売品として——」
「マギー」
リリアーナは穏やかに、しかし明確に言った。
「出版は、しません」
マギーがしょんぼりした。両肩が下がり、メモ帳を胸に抱いて、うつむいている。
……かわいそうだが、ここは譲れない。カミリアの学院生活と、ダリアの騎士団での立場と、リリアーナ自身の尊厳がかかっている。
「でもね、マギー」
リリアーナはマギーの頭を撫でた。
「書き続けることは、止めないわ。あなたが大事に思ってくれていることは、わかっているから」
マギーが顔を上げた。目がうるんでいた。
聖典は出版されない。でも、書くことは許される。マギーにとってそれは——御母上様の言葉を大切にしていいという、許可だ。
「……はい、御母上様。ありがとうございます」
メモ帳を握る手に、力がこもった。




