第17話『泣くと出ます(魔獣が)』
事件は、昼食の準備中に起きた。
赤ん坊は午前中ずっと大人しかった。リリアーナの腕の中で眠り、目を覚ましてもきょとんとした顔で天井を見つめているだけだった。マギーが「天使です」と言い、ダリアが「油断するな」と言い、カミリアが横目でちらちら見ながら「別に気になってない」と言った。気になっている。全員気になっている。
昼食の時間が近づいた頃、赤ん坊のお腹が空いた。
最初は小さなむずがりだった。体をもぞもぞ動かして、口をぱくぱくさせて、ミルクを探している。リリアーナはすぐに気づいた。四人目だ。この合図は知っている。
「あら。お腹空いたのね。待っててね、すぐミルクを——」
立ち上がって台所に向かおうとした、その瞬間。
赤ん坊が泣いた。
ミルクを待てなかったのだ。空腹が限界を超えて、火がついたように泣き始めた。顔を真っ赤にして、口を大きく開けて、声の限り——
空気が、揺れた。
居間の中央に、淡い光の円が浮かび上がった。床の上に。魔法陣だ。見覚えのない紋様が、くるくると回転している。
光が収束して——何かが、出てきた。
猫くらいの大きさの生き物だった。青い毛並み。丸い目。短い角が二本。小型の魔獣だ。図鑑で見たことがある。森に棲む下級の精霊獣で、人間には無害だが、突然居間に出現するものではない。
精霊獣は、きょとんとした顔で周囲を見回した。自分がどこにいるのかわかっていないらしい。
全員が固まった。
リリアーナの思考が追いつくのに、三秒かかった。
今、赤ん坊が泣いた。泣いた瞬間に、魔法陣が出た。魔法陣から、精霊獣が出た。
つまり——この赤ん坊が、召喚した。泣き声をトリガーに、召喚魔法が発動した。
赤ん坊が。召喚魔法を。生後数ヶ月の赤ん坊が。
ダリアは三秒を待たなかった。
固まったのは一秒だけで、次の瞬間には剣を抜いていた。精霊獣の前に立ちはだかり、リリアーナと赤ん坊を背中で守る体勢をとる。
「お母様、下がってください!」
頼もしい。本当に頼もしい長女だ。
ただし問題は精霊獣ではない。精霊獣は無害だ。問題は、この赤ん坊の才能のほうだ。
カミリアが蒼白な顔で立っている。魔法の知識がある分、事態の異常さを正確に理解している。
「……召喚魔法? 赤ん坊が? 詠唱もなしで?」
詠唱なし。魔法陣の構築もなし。術式の展開もなし。ただ泣いただけで、召喚が成立した。
魔法学院の首席であるカミリアが、呆然としている。理論で説明がつかないのだろう。
マギーだけが、目を輝かせていた。
「天才です! この子は天才です! 御母上様のお子にふさわしい、天賦の才です!」
「天才じゃなくて災害でしょう」
ダリアが剣を構えたまま言った。
「……泣くたびに、これが出てくるの?」
カミリアの声が震えている。
リリアーナは赤ん坊を抱き直して、台所からミルクを取ってきた。哺乳瓶を赤ん坊の口に当てる。赤ん坊がミルクを飲み始めた。泣き止んだ。
居間の魔法陣が、すうっと消えた。精霊獣がきょとんとした顔のまま、光に包まれて消滅した。
泣き止んだら、消えた。
「……この子、泣くと召喚しちゃうみたいね」
リリアーナは穏やかに言った。穏やかに言ったが、内心は穏やかではなかった。
召喚魔法。三大魔法体系の一つに数えられる高等魔法。術式の構築だけで何年もかかる。それを、赤ん坊が、泣くだけで。
天才、という言葉で片付けていいのかわからない。天災、のほうが近いかもしれない。ダリアの言う通りだ。
「お母様。この子の魔力管理は——」
「そうね。考えないといけないわね」
ダリアが真剣な顔で言い、リリアーナが頷いた。
赤ん坊は空腹になるたびに泣く。泣くたびに召喚が発動する。つまり、ミルクが遅れるたびに居間に魔獣が出現する。
花籠の館の日常に、新たな変数が加わった。
「当面は、この子が泣く前にミルクを与えるしかないわね。泣かせなければ召喚は起きない」
「お母様。それは、二十四時間この子を監視するということですか」
「そうなるわね」
「お母様の睡眠時間が——」
「大丈夫よ。昔もそうだったもの」
昔。ダリアが赤ん坊だった頃。カミリアが赤ん坊だった頃。マギーが赤ん坊だった頃。
夜中に何度も起きて、ミルクを作って、あやして、寝かしつけて。あの頃は召喚魔法の心配はなかったが、睡眠不足は同じだった。
「……今回は、私も手伝います」
マギーが静かに言った。崇拝者の声ではなかった。お姉ちゃんの声だった。
「この子が泣かないように、私がそばにいます。夜も。御母上様が少しでもお休みになれるように」
ダリアとカミリアが、マギーを見た。
末っ子が、姉の顔をしている。
リリアーナの胸が温かくなった。
「ありがとう、マギー。じゃあ、みんなで交代でこの子を見ましょう」
「はい、御母上様。——あ」
マギーがリリアーナの皿を見た。
「御母上様。お昼ご飯を召し上がっていません」
「あら」
召喚魔法の衝撃で、食事のことをすっかり忘れていた。赤ん坊のミルクは即座に用意できるのに、自分のご飯は後回しになる。いつものことだった。




