第16話『四人目が来たので、全員で育てます』
翌朝。花籠の館は、ちょっとした騒ぎになっていた。
リリアーナが居間のソファに座っている。膝の上に赤ん坊がいる。昨夜の嵐でびしょ濡れだった布は新しいものに替え、体を温めて、ミルクを飲ませた。赤ん坊は今、リリアーナの腕の中で穏やかに眠っている。
問題は、その周囲だった。
ダリアが腕を組んで立っている。眉間に深い皺。
「お母様。よく考えてください。この子をうちで預かるということは——」
「預かるわ」
「まだ何も説明していません」
リリアーナは穏やかに微笑んだ。ダリアの説明を聞く前に結論が出ている。聞いても結論は変わらないが、ダリアは手続きを重んじる子なので、ちゃんと聞く姿勢は見せる。
「お母様はご自分の食事すら忘れる方です。その上で赤ん坊の世話まで——」
「うん。そうね」
「夜中の授乳は体力を消耗します。研究時間も既に三時間に制限されています。これ以上の負荷は——」
「そうね。全部正しいわ。でも預かるの」
ダリアが目を閉じた。正論が通じない相手への、諦めに似た長い息。
カミリアがソファの端から赤ん坊を見つめている。心配だと口では言いつつ、目は完全に赤ん坊に釘付けだった。氷の才媛の装甲が、小さな寝顔を前に融解し始めている。
「……ママ。体力だって——」
「カミリア。あなた、この子のこと見たいんでしょう?」
「……見たくなんかない。心配してるの」
嘘だった。目が「かわいい」と叫んでいた。
マギーだけが、最初から揺るがなかった。
「御母上様の御判断に従います! 新たなる家族に祝福を!」
「「黙ってて」」
ダリアとカミリアが同時に言った。マギーは怯まない。
「御母上様が拾われた子を、御母上様の家族が受け入れるのは当然です。これは信仰ではなく、道理です」
珍しくまともなことを言っている。マギーは時々、崇拝の奥からこういう真っ直ぐな言葉を出す。
そしてマギーは、赤ん坊の顔を覗き込んで——笑った。崇拝者の顔ではなかった。御母上様に向ける恍惚でもなかった。もっと素朴な、十五歳の女の子の笑顔だった。
「……私、お姉ちゃんになるんですね」
小さな声だった。ダリアとカミリアが振り向いた。
「今まで、ずっと一番下でした。姉さま方には可愛がっていただきましたけど、私が誰かのお姉ちゃんになることは、ないと思っていました」
マギーの指が、赤ん坊の小さな手にそっと触れた。赤ん坊がマギーの指を握った。反射だ。意思ではない。でもマギーの目が、きらきらと輝いた。
「この子には、私がいろいろ教えてあげなくちゃ。御母上様のすごいところとか、花籠の館の素敵なところとか——」
「布教はしないでね」
「……布教ではなく、教育です」
リリアーナは笑った。布教と教育の境目が怪しいが、今のマギーの顔は紛れもなく「お姉ちゃん」の顔だった。
この子はずっと末っ子だった。姉たちに守られて、姉たちの背中を追いかけて。初めて自分より小さい存在ができたことが、嬉しくて仕方がないのだ。
結局、誰も「預からない」とは言えなかった。反対しているのは「リリアーナの体が心配だから」であって、赤ん坊を拒絶しているわけではない。三人とも、リリアーナの娘だ。母が拾うと決めたものを、最後には受け入れる。
「じゃあ、みんなで育てましょう。お世話、手伝ってくれる?」
三人が頷いた。素直に。
——ここからが、大変だった。
まず、ダリアがミルクを作った。
騎士団で鍛えた手際の良さで湯を沸かし、粉ミルクを溶かし、哺乳瓶に注いだ。そこまでは完璧だった。
問題は温度だった。
「お母様、ミルクです」
「ありがとう、ダリア。……あら。これ、ちょっと熱いわね」
「……熱い?」
「赤ん坊のミルクは人肌よ。これだと——」
ダリアが哺乳瓶を手の甲に当てて確認した。熱かった。剣の手入れは完璧なのに、ミルクの温度管理は初めてだった。
騎士のプライドにかけて失敗は許されないらしく、ダリアは無言で台所に戻り、温度を測り直し始めた。温度計を三本使っていた。軍事作戦の精度でミルクの温度を管理している。
次に、カミリアが着替えを手伝おうとした。
赤ん坊の服を脱がせるところまではできた。着せるところで詰まった。
「……ママ。この紐、どう結ぶの」
「こうやって、くるっと——」
「くるっと?」
「こう」
「……こう?」
「違うわ。もう少し優しく——」
カミリアの手は魔法の術式を組むためにできている。精密で、正確で、複雑な魔法陣を描ける手だ。しかし赤ん坊の衣服の紐は、魔法陣より難しいらしかった。
そして着替えの途中で赤ん坊がカミリアを見上げた。小さな目で。何も知らない、無防備な目で。
カミリアの外面が、完全に崩壊した。
「……かわいい」
声が漏れた。氷の才媛が、赤ん坊の前で溶けた。着替えどころではなくなった。
マギーは最初から別方向に暴走していた。
「新たなる家族に、御母上様の祝福を込めた護符を!」
工房から特製の護符を持ってきた。赤ん坊の揺り籠に取り付けようとしている。
「マギー。その護符、大人用よね」
「はい。最高位の防護結界です」
「赤ん坊に最高位は強すぎるわ。魔力の負荷で逆に危ないの」
「……そうなのですか」
マギーがしょんぼりした。最高の祝福を贈ろうとして、それが赤ん坊には強すぎるという事実。付与魔法の天才が、力加減を学ぶ必要があった。
「ね、マギー。赤ん坊用の、もっと優しい護符を作ってくれる?」
「……はい! 御母上様! 赤ん坊用の聖なる——」
「普通の護符でいいのよ」
「……普通の、聖なる護符ですね」
「普通の、で止まってくれると嬉しいんだけど」
三人が奮闘している間、リリアーナだけが手際よく赤ん坊の世話をこなしていた。
ミルクの温度を手首の内側で確認し、おむつを替え、げっぷをさせ、寝かしつける。一つ一つの動作に迷いがない。四人目だからだ。ダリアを育て、カミリアを育て、マギーを育てた手が、覚えている。
ダリアが感心した声で言った。
「……お母様は、慣れていらっしゃるんですね」
「四人目だもの」
四人目。この言葉を、自然に口にしている自分に気づいた。もう「預かっている子」ではなく「四人目」だ。
そしてリリアーナは、全員の朝食を作り、全員に配り、赤ん坊にミルクを与え——自分の分を、また忘れた。
「お母様」
「……ママ」
「御母上様」
三つの声が同時に響いた。
「あらあら。えへへ」
笑ってごまかそうとした。三対の目が笑っていなかった。ダリアが無言で皿を持ってきた。カミリアがミルクティーを淹れた。砂糖は二つ。マギーがパンを温めた。
四回目の食事忘れ。もはや恒例行事だった。
赤ん坊がリリアーナの腕の中ですやすや眠っている。
三人の娘が、母親に食事を強制している。
花籠の館の朝は、今日もカオスだった。




