第15話『もう大丈夫よ、ここは暖かいから』
嵐が来た。
夕方から空が暗くなり、夜になる頃には雨が叩きつけるように降り始めた。風が森の木々を揺らし、窓ガラスが悲鳴のような音を立てている。
リリアーナは屋敷の結界を強化した。花籠の館を守る防護結界は、通常でも十分な強度がある。嵐の夜は少しだけ上乗せする。念のためだ。
ダリアが屋敷の外周を確認して回った。窓の戸締り、屋根の状態、庭の花畑の養生。騎士の巡回と同じ手順で、一つずつ丁寧に。
カミリアが屋敷内の窓を全て閉じた。マギーが暖炉に薪を足した。
誰に言われなくても、全員が動く。嵐の夜は、いつもそうだ。
「みんな、今夜は早めに寝ましょうね」
リリアーナが言うと、三人が揃って頷いた。珍しく素直だった。嵐の夜は、娘たちも大人しくなる。
全員が部屋に戻った。
リリアーナも自分の部屋に入って、ベッドに横になった。嵐の音が遠くで鳴っている。結界に守られた屋敷の中は静かだが、外の風の唸りは聞こえる。
目を閉じた。
——どのくらい経っただろう。
扉をノックする音がした。小さな、遠慮がちなノック。
「……ママ」
カミリアの声だった。
リリアーナは起き上がって扉を開けた。カミリアがパジャマ姿で立っている。枕を抱えていた。
「……嵐、すごくて。眠れなくて」
十八歳。学年首席。氷の才媛。
雷が怖いわけではない。カミリアは魔法の才能がある。嵐くらいで怯える子ではない。
ただ、嵐の夜は——一人で眠るのが心細いだけだ。小さい頃からそうだった。嵐の夜だけは、必ずリリアーナの部屋に来る。
「おいで。一緒に寝ましょう」
カミリアがベッドに潜り込んできた。リリアーナの隣に丸くなって、毛布を引き上げる。さっきまで十八歳の学年首席だった人間が、八歳くらいに見える。
「……ママ、あったかい」
「嵐、すぐ止むわよ」
「……うん」
カミリアの呼吸が落ち着いてきた。
このまま眠るだろう、とリリアーナは思った。いつもそうだ。母の隣にいるだけで安心して、すぐに眠る。
だが、今夜は違った。
カミリアが目を開けた。
「……ママ。外から、何か聞こえない?」
リリアーナは耳を澄ませた。
嵐の音。風の音。雨の音。
その中に——かすかに、別の音が混じっている。
泣き声だった。
嵐にかき消されそうな、小さな、必死な泣き声。人間の泣き声。
赤ん坊の泣き声。
リリアーナの体が動いていた。
考えるより先に。判断するより先に。ベッドから出て、廊下を抜けて、階段を下りて、玄関に向かっていた。カミリアが後を追ってくる。
「ママ、待って——」
玄関の扉を開けた。
嵐が吹き込んでくる。雨が顔に叩きつけられる。風が髪を乱す。
結界の内側、玄関の庇の下に——布に包まれた小さな塊があった。
赤ん坊だった。
薄い布にくるまれて、石畳の上に置かれている。顔を真っ赤にして、小さな拳を握りしめて、嵐の中で泣いている。
リリアーナの手が伸びた。
考えていない。何も考えていない。
二十年前と同じだ。森の中で、月明かりの下で、ダリアを拾った夜と同じだ。
赤ん坊を抱き上げた。
布ごと。冷え切った小さな体。でも、生きている。泣いている。必死に、生きている。
腕の中で、泣き声がぴたりと止まった。
赤ん坊がリリアーナの胸に顔を押しつけて、小さく息をついた。
——温かい。
二十年前と同じだった。何もかも。
抱き上げた瞬間に泣き止むところも。胸に顔を押しつけるところも。この手の中の温もりも。
「もう大丈夫よ。ここは暖かいから」
声が出ていた。自分でも驚くほど自然に。
二十年前にも、同じことを言った気がする。
カミリアが、隣で立ち尽くしていた。
リリアーナの腕の中の赤ん坊を見ている。目が見開かれている。
「……ママ」
「カミリア。この子、冷えてるわ。お湯を沸かしてくれる?」
「……うん」
カミリアが走っていった。台所に向かう足音が聞こえる。
リリアーナは玄関の扉を閉めて、赤ん坊を抱いたまま居間に入った。暖炉の火はまだ残っている。マギーが寝る前に足した薪が、静かに燃えている。
赤ん坊を暖炉の前に連れていった。温かい光が、小さな顔を照らす。
目を閉じている。泣き止んで、安心して、リリアーナの腕の中で眠り始めている。
嵐の音が遠い。
腕の中だけが、静かだった。
——ああ。また、だ。
リリアーナは思った。
また、拾ってしまった。
また、この手が伸びてしまった。
二十年前のダリアの時も。十七年前のカミリアの時も。十五年前のマギーの時も。
そしてまた、今夜。
止められない。止まらない。
泣いている子がいたら——手が伸びる。考えるより先に。
それが正しいことなのか、間違っていることなのか、リリアーナにはわからない。
ただ——この子が温かいことだけは、わかる。




