第13話『世界で一番安全な場所』
玄関の扉が閉まった。
ノエルの足音が森の小道に消えていく。結界の反応が遠ざかるのを確認して、リリアーナは小さく息をついた。
振り返ると、カミリアがソファの上で崩れていた。
文字通り、崩れていた。背筋がぐにゃりと曲がり、頭がソファの背もたれに預けられ、両腕がだらんと垂れている。眼鏡はもう外されている。結い上げていた髪もほどけかけている。三秒で完成させた氷の才媛が、ノエルの退出と同時に溶解した。
「……助かった」
声に力がない。口頭審査と外面維持の二重疲労が、一気に押し寄せてきたのだろう。
「大変だったわね。お茶、もう一杯淹れましょうか」
「……いらない」
「何か食べる?」
「……いらない」
いらない、が二回。では何がほしいのか。聞かなくてもわかる。
カミリアがのろのろと体を横にして、リリアーナの膝に頭を乗せた。ノエルが来る前の位置に、正確に戻った。スカートの裾を、また右手で握っている。
「……ママのおひざが、世界で一番安全」
小さな声だった。十八歳の声ではなかった。もっと幼い、守られたがっている声だった。
リリアーナは何も言わずに、髪を撫で始めた。
安全。この子にとって、母の膝は「安全」なのだ。
外の世界には、たくさんのものがある。口頭審査がある。教授の目がある。同級生の期待がある。「万象の魔女の娘」という看板がある。「氷の才媛」という評判がある。
全部、カミリアが自分で背負っているものだ。リリアーナが背負わせたわけではない。でも、リリアーナが万象の魔女であることが、カミリアに余計な重荷を乗せていることは事実だった。
万象の魔女の娘なのだから、優秀であって当然。万象の魔女の娘なのだから、取り乱してはいけない。万象の魔女の娘なのだから——
そんなもの、知らない。リリアーナは誰にもそんなことを頼んでいない。カミリアにはカミリアの人生がある。首席でなくても、才媛でなくても、リリアーナにとってのカミリアは何も変わらない。
でも、それを口にしたところでカミリアは変わらないだろう。この子の頑張りは、誰かに命じられたものではない。カミリアが自分で選んだ道だ。
母にできることは、帰ってきた時に膝を差し出すことだけだ。
それでいい。それだけでいい。
「……ママ」
「なあに?」
「……ノエルに、変なとこ見られなかった?」
「見られてないわよ。カミリアの変身、すごかったもの。三秒だったわ」
「……三秒?」
「三秒。新記録かもしれないわね」
カミリアが膝の上で小さく笑った。
「……ママが止めてくれたの、わかった。マギーのこと」
「あら。気づいてた?」
「ママの足音が台所の方に行って、すぐ戻ってきたから」
気づいていたのか。外面を維持しながら、母の足音まで聞いていたのか。この子の感覚の鋭さは、本当にリリアーナの魔法の才能を受け継いでいる。使っている方向が膝の確保と外面維持だというだけで。
「……ありがとう、ママ」
「当たり前よ。ママはカミリアの味方だもの」
当たり前のことを、当たり前に言う。
特別なことではない。娘が困っていたら助ける。それだけのことだ。万象の魔法は必要ない。必要なのは、台所まで歩いていってマギーを押し戻す程度の足腰だけだ。
カミリアの手が、スカートの裾を握ったまま、少しだけ力を緩めた。安心したのだろう。緊張が抜けていくのが、握る力の変化でわかる。
数分後、規則正しい寝息が聞こえてきた。膝の上で眠ってしまったらしい。
リリアーナは動かなかった。
起こすのが忍びないとか、そういう理由だけではない。この子がこうやって安心して眠れる場所が、自分の膝の上にあるということが——ただ、嬉しかったのだ。
窓の外では、夕日が森の木々を橙色に染めている。
静かな時間だった。花籠の館の中で一番静かな時間。
娘が膝の上で眠って、母がその髪を撫でている。それだけの時間。
どっちのカミリアも——「氷の才媛」も、「ママのなでなで」をねだる女の子も——同じカミリアだ。同じ、リリアーナの大事な娘だ。
どちらかを選ぶ必要なんてない。どちらも丸ごと受け止める。
それが母親の仕事だと、リリアーナは思っている。




