第12話『変身三秒、隠蔽工作はママの仕事』
約束通り、カミリアは帰宅した瞬間に膝へ倒れ込んできた。
「ただいまぁ……ママぁ……」
玄関で靴を脱いで、鞄を置いて、まっすぐ居間のソファへ。リリアーナが座っているのを確認する間もなく、膝に頭を落とす。制服のまま。眼鏡だけは几帳面にケースにしまってから。
そして二秒で溶けた。
朝の「氷の才媛」が、完全に消滅した。残ったのは、母の膝にしがみつく十八歳の女の子だ。
「……今日、疲れた」
「お疲れさま。大変だった?」
「……論文の口頭審査があった。教授三人の前で発表した」
「すごいわねぇ。カミリアは頑張り屋さんだから」
「……ん。がんばった。だからなでなで」
撫でる。さらさらの栗色の髪を、ゆっくり、丁寧に。カミリアが目を閉じる。口元が緩む。朝と同じ顔だ。
リリアーナは思う。教授三人を相手に口頭審査をこなした直後の人間がこれだ。外で張り詰めた分だけ、家では底が抜ける。振り幅が大きすぎて心配になるが、これがカミリアのバランスの取り方なのだろう。
ダリアは庭で剣の素振りをしている。マギーは工房で護符を作っている。居間にはリリアーナとカミリアだけ。静かで、穏やかな午後だった。
——のだが。
森の結界が反応した。
登録されていない人物。つまり、家族ではない誰かが来る。
リリアーナの背筋が伸びた。
カミリアは気づいていない。膝の上で完全に脱力している。目は閉じたまま、口は半開き、手はリリアーナのスカートの裾を握っている。
来客。今。このタイミングで。
数分後、玄関のノック。
「ごめんくださーい。カミリアさん、いらっしゃいますかー?」
明るい女の子の声だった。
カミリアの目が開いた。覚醒率が一瞬で三割から十割に跳ね上がった。
「……ノエル?」
声が出た途端、カミリアの顔から血の気が引いた。
ノエル。学院の同級生。カミリアが万象の魔女の娘であることを知った上で、普通に接してくれる数少ない友人の一人。だからこそ余計にまずい。「万象の魔女の娘」が母の膝でスカートの裾を握っている姿を見られたら——学院での評判どころの話ではない。
カミリアが跳ね起きた。
ここからが、すごかった。
一秒目。膝から離れる。髪を手櫛で整える。
二秒目。眼鏡ケースを開け、眼鏡をかける。
三秒目。背筋を伸ばし、制服の皺を両手で一度だけ払い、表情を切り替える。
三秒。
氷の才媛が、完全に再起動した。
リリアーナは目の前で見ていたのに、何が起きたのか処理が追いつかなかった。今の三秒間で、あの甘えん坊のカミリアがどこに消えたのか。人体の神秘というべきか、変身魔法もかくやという速度だった。
「……お母様。お客様みたいですね」
声まで変わっている。「ママぁ」が「お母様」に戻っている。三秒前の人間と同一人物だとは、絶対に誰も信じない。
「あらあら。そうみたいね」
リリアーナは穏やかに微笑みながら、玄関に向かった。
玄関を開ける。ノエルが立っていた。カミリアと同い年くらいの、明るい印象の女の子だ。
「こんにちは。カミリアさんに、口頭審査の参考資料をお届けに来ました」
「まあ、わざわざありがとう。上がっていって? お茶を淹れるわね」
「いいんですか? ありがとうございます!」
ノエルが居間に通された。カミリアがソファに座っている。完璧な氷の才媛の姿勢で。三秒前に母の膝でスカートの裾を握っていた人間には見えない。
「カミリアさん、今日の発表すごかったね。教授たちも感心してたよ」
「ありがとう、ノエル。あなたの論文も素晴らしかったわ」
涼しい声。完璧な微笑み。外面の装甲が完全に機能している。
リリアーナはお茶を淹れながら、カミリアの横顔を見た。隣に座っているノエルにはわからないだろうが、リリアーナにはわかる。カミリアの左手が、ソファのクッションを強く握っている。外面を維持するのに全力を注いでいるのだ。
がんばれ、カミリア。ママは何も言わないから。
「カミリアさんのお母様にお会いできるなんて光栄です。万象の魔女様が、こんなに穏やかで優しそうな方だなんて……」
ノエルがリリアーナを見て、目を輝かせている。万象の魔女の名は学院では知れ渡っている。カミリアがその娘であることも。だからこそカミリアは外面を崩せない。「万象の魔女の娘」に求められる水準は、普通の学生の比ではないのだ。
「あらあら。大袈裟ねぇ。私はただのお母さんよ。カミリアは自分の力で頑張ってるの」
何もしてない。膝を貸しているだけだ。朝と夕方に。毎日。
「カミリアのお友達なら、うちの子と同じよ。ゆっくりしていってね」
カミリアの眉がぴくりと動いた。「うちの子と同じ」——母の「うちの子」認定の範囲が広いことを、カミリアは知っている。
と、その時。台所の方から足音が聞こえた。
軽くて速い足音。一段飛ばし。マギーだ。
「御母上様! 聖典の第九章が完成しました! 御確認を——」
リリアーナは穏やかな笑顔のまま、音を立てずに立ち上がり、台所の入り口でマギーを迎え撃った。
笑顔のまま、マギーの両肩をつかみ、そっと押し戻す。
「マギー。今、お客さんが来てるの」
「お客さま? では聖典の朗読を——」
「しません」
「布教の——」
「しません」
「御母上様の素晴らしさを広める絶好の——」
「マギー」
声は穏やかだった。穏やかだったが、目が笑っていなかった。万象の魔女が、笑顔のまま目だけで末娘を制圧した。
「……承知いたしました」
マギーが台所に引き返していった。
リリアーナは何事もなかったかのように居間に戻り、お茶のおかわりを注いだ。
「お待たせ。クッキーもあるわよ?」
穏やかな笑顔。完璧な母の顔。
その裏で、冷や汗が背中を伝っていた。危なかった。マギーが出てきたら全部終わっていた。「聖典」「布教」「御母上様の素晴らしさ」——どれか一つでもノエルの耳に入ったら、カミリアの学院生活は崩壊する。
穏やかな顔で、必死にバタバタしている。
これが、リリアーナの日常だ。




