第11話『氷の才媛の朝は「なでなで」から始まる』
カミリアの朝は、二段階で来る。
第一段階。午前六時半。
リリアーナの寝室の扉が、かちゃりと開く。足音はない。スリッパも履いていない。裸足で、パジャマのまま、寝癖だらけの髪を揺らしながら、カミリアが部屋に入ってくる。
目は半分閉じている。意識は三割ほどしか戻っていない。残りの七割はまだ夢の中にいる。
カミリアはベッドの横に立って、小さな声で言う。
「……ママぁ。なでなでぇ」
これが合図だ。
リリアーナは布団をめくって、カミリアを隣に入れる。カミリアがすぐに寄ってきて、リリアーナの膝の上に頭を乗せる。リリアーナが髪を撫でる。カミリアが目を閉じる。
猫のようだ、といつも思う。撫でると喉を鳴らしそうな勢いで、ぐりぐりと頭を膝に押しつけてくる。
毎朝のことだ。毎朝、欠かさず、カミリアは母の膝を求めに来る。雨の日も、風の日も、試験の朝でも。
十八歳。学年首席。「氷の才媛」。
その人間が、毎朝母親の膝で「なでなで」をねだっている。
リリアーナは撫でながら思う。
この子の髪は、小さい頃から柔らかかった。栗色の、さらさらした髪。拾った日の夜、初めてお風呂に入れた時、あまりに細くて指の間からするすると流れていったのを覚えている。真冬の夜だった。冷え切った小さな体をお湯で温めて、薄い産毛みたいな髪をそっと洗った。
今はもう長く伸びて、肩の下まである。学院では一つに結んでいるらしい。でも朝はこうしてほどけたまま、リリアーナの膝に広がる。十八年分の成長が、この髪の長さに詰まっている。
「……ママ、あったかい」
「カミリアも温かいわよ」
「……んー」
会話とは呼べない会話だ。カミリアの返答は大半が「んー」か「ふぁ」で構成される。覚醒率三割の人間に文法を求めてはいけない。
十五分ほど撫で続けると、カミリアが少し目を開ける。覚醒率がようやく五割に達したらしい。
「……今日、学院に行きたくない」
「どうして?」
「……ママのおひざがいい」
毎朝言う。毎朝「行きたくない」と言い、毎朝ちゃんと行く。言うだけ言って、結局は自分で起き上がる。甘えたいけど自分を律することができる子だ。その律し方が少々極端なだけで。
「行ってらっしゃい、カミリア。帰ってきたらまた撫でてあげるから」
「……約束」
「約束よ」
カミリアがのそのそと起き上がる。名残惜しそうにリリアーナの膝を見て、十八歳にしては深すぎるため息をついた。
そしてリリアーナの頬に、ぽすっと顔を寄せた。頬ずり。これも毎朝の儀式だ。出発前の頬ずりをしないとカミリアは家を出られない。
「……いってきまぁす」
「いってらっしゃい」
これが第一段階。所要時間、約三十分。
第二段階。午前七時。
三十分後のカミリアは、別人だった。
銀縁の眼鏡。きちんと結い上げた栗色の髪。一本の乱れもない。制服の皺一つない着こなし。背筋は伸び、表情は涼しく、所作に隙がない。
さっきまで膝の上で「んー」と言っていた生物の面影がどこにもない。
「行ってまいります、お母様」
声まで違った。「ママぁ」が「お母様」になっている。人称も、音程も、トーンも、全部切り替わっている。
この変身を、リリアーナは毎朝見ている。毎朝見ているのに、毎朝驚く。三十分で人間はここまで変わるものか。
リリアーナは玄関で見送りながら思う。
同一人物だ。同一人物なのだ。信じてもらえないかもしれないが、本当に同一人物なのだ。
この変身を毎朝やっているカミリアは、ある意味では三姉妹の中で一番すごいのかもしれない。ダリアは常に騎士だし、マギーは常に崇拝者だ。二人はブレない。カミリアだけが、二つの顔を毎日切り替えて生きている。それはきっと、疲れることだ。
だからこそ、帰宅した瞬間に全部脱ぎ捨てて膝に倒れ込む。外の世界で張り詰めた分だけ、家では甘える。
その受け皿が母の膝だというのは——正直に言えば、少し誇らしかった。
「氷の才媛」が森の小道を歩いていく。背筋が伸びて、足取りは確かで、完璧な姿だ。
でも曲がり角で一度だけ振り返った。リリアーナが手を振ると、カミリアの口元がほんの少しだけ——本当にほんの少しだけ——緩んだ。
見えなかったことにする。カミリアが恥ずかしがるから。
さて、とリリアーナは思う。
今日も九時から三時間だけ研究をして、お昼を作って、マギーの聖典に名言を取られないように気をつけて、ダリアの護衛計画に従って。
そしてあの子が帰ってきたら、約束通り膝を貸す。
母の膝は、今日も忙しい。




